鈴鹿サーキット モータースポーツライブラリー

F1日本グランプリ語り継ぎたい24レース

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F1日本グランプリ語り継ぎたい24レース

私の選ぶ思い出のレース Vol.4私の選ぶ思い出のレース Vol.6
  • 土屋圭市
    1988年

    心に残る日本グランプリといえば、なんといっても88年からのセナ・プロ対決

    1995年、無謀にもフジテレビの松野プロデューサーは、僕にF1の解説をしろと命じ、その年のアメリカ、ブラジルが初仕事でした。オタク化しているファンから「なんでドリキンがF1を喋るんだ」と抗議の嵐。でも松野さんは「悪評も評判のうち」と割り切る人で、それ以来18年近く、日本グランプリでは、いろいろ学ばせてもらってます。
    特に2コーナースタンドからのリポートは、ストレートから1〜2コーナー、S字に消えて行くまで手に取るように観察でき、クルマの良し悪し、ドライバーの手腕が良くわかり勉強になります。
    心に残る日本グランプリといえば、なんといっても88年からのセナ・プロ対決と1990年の亜久里の表彰台。近年で言えば2012年小林可夢偉の3位表彰台。
    なんといっても鈴鹿では亜久里以来22年ぶりだもの。素晴らしい成績を残しながら翌年シートが無い。F1は厳しいところだけれど日本の企業ももっと理解して応援してほしいですね。
  • 鈴木亜久里
    1988年

    しかし僕の原点はやっぱり1988年の突然のF1デビュー。あれだよね。

    1990年は確かに、日本人ドライバーとして初めて表彰台に乗れた年で、素晴らしい思い出だけど、F1ブームがピークの中、流れでそうなった感じ。
    僕にとってはF1にデビューできた1988年のほうが強烈に(頭に)残っています。水曜日に電話があって、木曜日にヘルメットを持って鈴鹿へ行って(ローラ代表の)ラルースに逢って金曜からF1に乗っているわけで、こんなデビューのしかたはないよね。
    僕のF1はね、鈴鹿で始まって、鈴鹿で表彰台に乗って、1995年にリジェ無限に乗り鈴鹿で予選中クラッシュしてヘリで運ばれて、引退発表も出来なかったけど、全部鈴鹿で完結しているんです。初めも終わりも鈴鹿。すべてが鈴鹿なんだ。もう盛り沢山だよ(笑)
    そうしてドライバーを終えて、2006年にチームオーナーとして母国・鈴鹿に帰った時の感慨はひとしおでした。スーパーアグリF1チームがいることで皆が盛り上がってくれたし、ファンの皆さんには感謝あるのみです。
    しかし僕の原点はやっぱり1988年の突然のF1デビュー。あれだよね。
  • 岡田美里
    1988年

    偶然に同じ新幹線になったセナさんがニコッと振り向いてくれたこと。

    87年のモンツァでした。シーズン途中なのに「今から重大な発表がある。歴史に残る発表になるから美里さんもその目で見ておいたほうがいい。」と今宮さんに誘っていただいて見つめた野外での記者会見。マクラーレン・ホンダにセナ、プロストの誕生・・・を伝える桜井淑敏さんの記者会見の姿を仰ぎ見た私は当時26歳。「シャーシって何ですか?」と真面目に聞くようなF1初心者でした。「しかしフジテレビの中継では美里さんのような質問が必要だ。まだF1を知らない人のためにマンデーF1ワールドで毎週結果を伝えて欲しい。」
    それから一年。
    そんな私でもF1の虜になるまでに時間がかかるはずもなく狂おしくマシンを目で追いかけついに叫んだ88年の鈴鹿でのグランドスタンド前28週目ストレート。プロストを抜いたセナさんの数周後の初優勝と涙。顔見知りとなったチームホンダのスタッフのみなさんが向こう側に見えて数倍も嬉しかった鈴鹿での勝利でした。
    だけど一番嬉しく後で辛かったのは長距離を歩いて電車を乗り継いでたどりついた名古屋駅のホーム。偶然に同じ新幹線になったセナさんがニコッと振り向いてくれたこと。ご機嫌な表情で「またね!」と。
    再来年はマクラーレン・ホンダ復活の年になるそう。私も25年ぶりに鈴鹿サーキットに復活観戦したいものです。
  • 大石吾朗
    1987年

    鈴鹿・日本グランプリ初開催は大いに楽しみで、観客席の切符も買い、プレス申請もして出かけました。

    私は1980年からモータースポーツをテーマにしたラジオ番組「ADVANサウンド・コックピット」のDJをやっていました。F1の結果も伝えていて、ケケ・ロズベルグやジル・ビルニューブがまだ現役の時代でした。
    ですから1987年の鈴鹿・日本グランプリ初開催は大いに楽しみで、観客席の切符も買い、プレス申請もして出かけました。
    第1回ということでホテルがなく、木曜は四日市。次は伊勢市のビジネスホテルとジプシーのように転々としましたね。予選はまだグランドスタンド側にあったテラスのプレススタンドで見ていましたが、マンセルがS字でスピンしたとたん、誰かが「あーこれでピケのチャンピオン決定」と叫んだのが印象に残っています。マンセルはそのままヘリで病院に運ばれて、F1のダイナミズムを感じました。
    決勝日は少し寒かったけれど、グランドスタンドの下のほうで観戦しながら飲んだ「ボージョレ・ビラージュ」(赤ワイン)の味は格別でした。とにかくフロアから火花は散る。音はターボ時代だから図太く大迫力。あれからもう26年も経つのですね。鈴鹿さんの努力に感謝です。
  • 高桐唯詩
    1990年

    「レースは機械がやっているんじゃない。人間がやっているんだ。」

    鈴鹿は天と地と海。人とクルマ。日本と世界が交わる聖地だと思っています。
    人間の戦いなのに、神の領域に入ったような不思議なパワーを感じます。
    私はテレビの仕事をしながらも自由に取材したいので1990年頃はキャンプ場で寝泊りしていました。生マンセルがキャンプ客をあおって騒ぐなんてこともありましたね。90年のレース前。グリッドに立てばピケがヘリコプター事故で入院したナニーニに「頑張れサンドロ」と生放送で呼びかけるイベントに遭遇しました。スタート直後、セナはプロストを撃墜し、鈴鹿は凍りつきました。私も「こんなんじゃレースにならない」とガッカリしたけれど、やがてピケとモレノのベネトン二人がワンツーになり、亜久里ちゃんの3位が見えてくると鈴鹿は体温が上がり、暖かな幸福感に包まれていったのです。
    「レースは機械がやっているんじゃない。人間がやっているんだ。」
    そう思うと感動し、涙が溢れました。
  • 窪田等
    1994年

    私とF1の関わりは激動の1994年でした。

    私とF1の関わりは激動の1994年でした。
    セナが亡くなり「さらばアイルトン・セナ〜至上の愛とともに」という長編の追悼番組のナレーションを、まだ河田町にあったフジテレビで収録しました。
    それに続いて、追悼コンサートがあり、創作されたクラシックに乗せて読む鎮魂の詩も読ませていただきました。
    「さらばアイルトン・セナ」の中で思い出に残っているのは、簡潔な言葉で綴られた冒頭の詩「フランク・ウイリアムズ、泣く」「親友ゲルハルト・ベルガー」に痺れました。
    その年の秋、日本グランプリは「セナ・メモリアルグランプリ」とサブタイトルがつき、姉のビビアーニさんも来日し、セレモニーがありました。中継番組のアバンタイトルもセナを偲ぶものでした。それを読んでいる時「思い出の鈴鹿。思い出のセナ。チャンピオンの栄光。気品ある孤独。至上の愛。鈴鹿にはセナのすべてが残っている」というところで、感極まって読めなくなってしまったのです。ナレーターになって初めてのことでした。
    もはや、F1の仕事は私のライフワークになりましたが、あの当時の作品に参加できたことはまさしく「ナレーター冥利に尽きる名誉なこと」と思っています。
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