鈴鹿サーキット モータースポーツライブラリー

F1日本グランプリ語り継ぎたい24レース

F1日本グランプリ語り継ぎたい24レース 私の選ぶ思い出のレースF1日本グランプリ語り継ぎたい24レース

F1日本グランプリ語り継ぎたい24レース

私の選ぶ思い出のレース Vol.3私の選ぶ思い出のレース Vol.5
  • 川井一仁
    1990年

    僕はドライバーズ・ミーティングに入ることが許され、セナが憤慨してその席を立つ場面も見た。

    私の思い出の日本GP。
    これはなんと言っても1990年。あの時、僕はドライバーズ・ミーティングに入ることが許され、セナが憤慨してその席を立つ場面も見たし、レースのスタートではご存じのようにセナとプロストの接触、両者リタイアという大事件があった。あの時のセナへのインタビューは日本版'アイルトン・セナ〜音速の彼方へ'でも使われていたけど、あの接触はどう見てもセナに非があっただけに彼が答えてくれるだろうとは思わなかった。「インタビューするなら、被害者であるプロストだ」と直感的に判断したのだが、ピットレーンの端で先に戻ってきたフェラーリ・ドライバーに声をかけようとすると、ヘルメットをもった手で、'あっちへ行け、答えない'の仕草で僕を避けた。それでインタビューできる確率は低いと思いながら、セナを待ち、そしてピットレーンを彼の表情をうかがいながら並んで歩いた。手を振りながら観客に答えるセナ。彼も歩きながら、「どう話そう?」と考えていたんだと思う。そしてピットレーンを半分ほどきた所で立ち止まってくれ、'いいよ'と彼の目が言っているように見えた。でも意識の中には加害者に質問をする、それも神経質なセナが相手というのがあったので、考えた末に、「こういう形でチャンピオンシップを勝ち取るのは本意じゃないけど・・・」と切り出すことにした。あれほど神経をすり減らしたインタビューは今までない。何千回とドライバーにインタビューしたが、切り出しのフレーズを覚えているのはこれだけなのだから。まだレースは始まったばかりだったが、インタビューが終わった瞬間、「今日の仕事は終わった」と思ったぐらいだ。ところが、その後、亜久里が表彰台。レース後の国際放送のインタビュー・ルームに駆け上がり、失礼なことにピケとモレノに、「ごめん、君達より亜久里に訊きたい」と断って、亜久里にインタビューした。こっちは涙、涙だったのに、亜久里が意外にケロッとしていたのが印象的だった。ともかく、あまりにもドラマがありすぎて非常に疲れたレースだった。
    川井一仁。
  • 森脇基恭
    2005年

    怒涛の走りを展開したキミ・ライコネンです。

    鈴鹿は、世界屈指の挑戦的なコースの為多くのドライバーが惚れ、難しさ故の素晴らしいドラマも数多く生まれました。
    私の記憶の中にも「セナ・プロスト・マンセル・ベルガー・ピケ」がありますが、一つのレースを選ぶとしたら2005年怒涛の走りを展開したキミ・ライコネンです。
    予選17番手からスタートし、F1での追い越しは難しいと言われる鈴鹿で、フロントウイングや、ホイールが当たりそうになりながら、でも触らない華麗なテクニックを見せ、追い抜きを決めます。
    前日、マクラーレンの3rdドライバーのペドロ・デラ・ロサと立ち話をしました。「キミはコーナーを速い速度で抜ける別センサーを持っている」と言うのです。ペドロはマクラーレンのテストで一緒に走り、Dataを共有し解析しているのでキミの異才ぶりを一番理解しているのです。そのペドロが「どうしてあそこであの速度で入れるか分からない」「キミは速い」と言う。これは説得力があります。
    外から見てもキミの流れるような運転スタイルは秀逸です。F1をまるで自分の手足のごとく扱って、一人だけ異次元の走りで優勝!
    F1レースの大きな感動を与えてくれました。私はこのレースで「彼は近い将来きっと世界チャンピオンになる」と確信しました。
  • 船木正也
    1987年

    鈴鹿のレストランで食事していた30代半ばの男性とたまたま同席になった。

    1987年F1世界選手権フジテレビ日本グランプリ。
    レースそのものについて、ほとんど記憶は残っていない。前年の12月8日にFOCAエクレストン会長と契約締結。アナログ時代の契約書は、ハサミとノリが主要器具だった。いよいよ出来上がったのはたった10枚の綴りもの。それが準備のための全ての判断材料だったのだ。「行間を読む」という言葉があるが、この行間の広さは膨大だった。解釈の違いは毎度深刻な議論に及んだ。今でこそ同志とも言える鈴鹿サーキットとですら、初回はお互いに意地の張り合いで、殺伐とすらしていた。
    FOCA、FIA、出場チームたちの「F1軍団」とは片方でいがみ合いながらも、彼らは時間が来れば、やることはきっちりやる。
    終われば呉越同舟で大パーティー。
    なるほど、これが世界一流のプロフェッショナリズムなのか。
    1987年10月。鈴鹿のレストランで食事していた30代半ばの男性とたまたま同席になった。「レースって、30歳を過ぎると、一緒にサーキットに来る仲間が減っちゃうんだよね」
    その男性は27年経った今も、どこかのスタンドでF1日本グランプリを楽しんでいることだろう。観客の年齢幅が広がったことを感慨深く思いつつ。
    当時エクレストン会長は56歳。プロの興行師として、益々全霊を傾けている。
    気が付けば自分もその歳に近付いた。そして、今や契約書は100ページを超えるものに膨らんだ。
    F1グランプリよ、永遠なれ!
    株式会社フジテレビジョン スポーツ局 船木正也
  • 松野博文
    1989年

    私にとってチェッカーフラッグがF1中継の終わりではなく、もう一つのドラマの始まりだった。

    私にとってチェッカーフラッグがF1中継の終わりではなく、もう一つのドラマの始まりだった。
    「プロスト王手、一方のセナは鈴鹿で勝たないと、逆転王座が消滅」
    1989年も優勝争いは鈴鹿決戦となり、レースはプロスト1位、セナ2位で進行し、もの凄い緊張感の中47周目、両雄はシケインで接触。プロストはマシンを降りたが、セナは執念でコースに復帰。ウイングを失くすも驚異的なペースで残り2周、ナニーニを抜き一着ゴール・・・。
    その時フジテレビの中継カメラは見ていた。超歓喜の鈴鹿とは対照的にコントロールタワーへ鬼の形相で走り込み、セナのシケインショートカットを猛抗議するプロスト。
    一方、ひとり控室で、裁定をポツンと待ち続けるセナ。その映像は今でも私の目に焼き付いている。一点を凝視した淋しげな表情はこれから襲来する「孤立」の前兆とも私には思えた。ざわめく全世界のプレス。重苦しい雰囲気の中継車の中で、凄く、凄く長い時間に思えた。結果、表彰台にはセナの姿はなく、セナは失格という有罪判決。これを発端にセナ&プロ確執に加え、FIAとセナの全面闘争が深刻化。サーキット外のドラマのプロローグとなった鈴鹿。これが私の心の鈴鹿。
  • 勅使河原由佳子
    2002年

    琢磨選手がパルクフェルメに戻り、マシンから降りたときの地響きのような歓声は一生忘れられません。

    2002年、この年にジョーダンHondaからデビューした佐藤琢磨選手が日本GPで5位入賞を果たしたレースが印象に残っています。
    小学生の頃からF1好きだった私。大学3年時には、フジテレビ「すぽると!」で念願のF1コーナーリポーターを担当させていただきました。「すぽると!」在任中、佐藤琢磨選手の翌年のF1参戦が決定。取材に行った記者会見で目を輝かせながら抱負を語っていた琢磨選手。しかしデビューシーズンとなった2002年はトラブルやアクシデントでノーポイントレースの連続。厚い壁にもがき続ける中、迎えた日本GP決勝日。一時は逆転を許すも思い切りのよい走りで順位を上げ、ついに5位入賞!琢磨選手がパルクフェルメに戻り、マシンから降りたときの地響きのような歓声は一生忘れられません。
    現在私は、地元東海テレビでアナウンサーとして働いていますが、このとき学んだ"諦めないこと"の大切さとスポーツ現場の面白さが原動力となっています。
  • 由良拓也
    2000年

    日本GPは、いつもと違う、妙にグルメ気分のF1だったのが思い出深い。

    2000年、フレンチの鉄人坂井さんと行ったF1は、いつもと違う楽しいモノだった。
    当時"料理の鉄人"が放映中だったので、どこへ行っても歓迎してもらえた。ジョーダンのピットでは無限の本田博俊さん(食通で有名です)が自ら案内してくれるし、マクラーレンでは安川マネージャーがピットやパドックをダイニングとキッチンに例えて親切に解説してくれたり(これは素晴らしかった!)、どこへいっても皆さん温かく迎えてくれた。
    坂井さんの人気はシューマッハなんか目じゃなかった。ほとんど水戸黄門状態でボクは助さんor角さん?状態で、ご一緒できてたいへん鼻が高かったのだ。
    そんなパドック、ホスピタリーブースで、2日間だけ営業される"パドッククラブ"は、まさに期間限定、旬のレストラン。ここでは食事をしながらドライバーやチーム監督の挨拶があったり、サイン入りキャップやTシャツなどの抽選会があったり、楽しいお土産も付いて、まるで相撲の升席みたいな(笑)まさにF1式おもてなしの場なのだ。
    一度に約100人ぐらいが食事ができるこのケータリングは英国のFOCAがマネージメントをしていて、F1と一緒に管理されホスピタリティーそのものをパッケージとして購入するシステムになっているそうだ。シェフをはじめウエイター・ウエイトレスもすべてF1に同行しているので、現地雇用のスタッフは無し。だから世界中どこのサーキットでも同じサービスが提供できるのはもちろん、VIPを満足させるに十分な内容をもっているわけだ。
    坂井さんにはF1の凄さに感激してもらえたが、職業柄?どのように、この巨大なケータリングシステムが管理運営されているのかのも興味津々の様子で、テントの裏を覗いてみたり、係りの人に質問したりとても熱心だった(笑)。
    さて、肝心の料理はフレンチのフルコース。さすがに鉄人に「おいしい」と言わしめることはできなかったけれど、仮設のテントで100人もの人に、これだけのクオリティーの味とサービスを提供できることには鉄人もいたく感心の様子で、またテントとは言えパドックのお店の雰囲気にも満足していただけたようだ。
    でも、デザートのティラミスだけは甘過ぎでダメだったね、というのが二人の共通した感想だった(笑)。
    と言うわけで2000年日本GPは、いつもと違う、妙にグルメ気分のF1だったのが思い出深い。
  • 加藤哲也
    1990年

    まったくF1はいつからこんな"茶番"になったんだ。正直そう思った。

    まったくF1はいつからこんな"茶番"になったんだ。正直そう思った。
    なにしろスタート直後にセナがプロストに寄せ、2台がもつれあうようにコースアウト、レースを終えた。しかも2周目の同じ場所ではマクラーレン・ホンダのもう1台、ベルガーが足を掬われスピン。労せずして手に入れたレースリーダーの座を自ら手放した。路面が汚れていることを知った上での完全なボーンヘッドである。しかし自滅の連鎖はまだまだ続く。トップに立ったマンセルがピットアウトの際あまりに乱暴にクラッチを扱ったせいで、フェラーリの駆動系が壊れたのだ。大番狂わせといえば聞こえはいいが、主役不在のグランプリに堕したと思った。
    しかし次の瞬間目に飛び込んできたのは、緑/赤/水色に塗り分けられた綺麗なマシンだった。ピケである。まだ千両役者が残っていたじゃないか!しかも同じブラジルの後輩モレノを2位に引き連れている。あぁ、F1ってやっぱり面白い。妙にうれしい見事なワンツーフィニッシュだった。
私の選ぶ思い出のレース Vol.3私の選ぶ思い出のレース Vol.5
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