鈴鹿サーキット モータースポーツライブラリー

F1日本グランプリ語り継ぎたい24レース

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私の選ぶ思い出のレース Vol.2私の選ぶ思い出のレース Vol.4
  • 大川和彦
    1987年

    4月のブラジルから7ヶ月間世界を回って鈴鹿に戻ってきた中嶋悟の凱旋GPは、いまでもはっきり覚えている。

    鈴鹿がもう25回目を迎えるなんて、こちらは年をとるはずである。1987年からのフジテレビF-1GP中継は、もちろん中嶋悟のロータス・ホンダでのフル参戦がきっかけであるが、放送する我々も各国のサーキットを初めて訪れながら転戦し、苦労の絶えない仕事を続けた記憶がある。4月のブラジルから7ヶ月間世界を回って鈴鹿に戻ってきた中嶋悟の凱旋GPは、いまでもはっきり覚えている。カーNo11の黄色い車体がスターティンググリッドに着いた時は実況席でも比較的冷静であったと思うが、予選11位から地元ならではのパフォーマンスを存分に見せ、徐々にポジション上げてポールツウフィニッシュのフェラーリ・ベルガーと同一周回の6位入賞で飛び込むとサーキット全体が大歓声に包まれた。チェッカーを受ける中嶋悟をモニター画面で確認すると揺れる大きな日の丸とオーバーラップしている。もういけない。思わず感極まって絶句してしまった。中継車からは「大川さん泣かないで喋ってください」と催促されるが喋れないものは喋れない。また最終戦のオーストラリアでは、レース後今宮純さんに一年目の総括をお願いすると、彼もきつかった想いが甦ったのか今度は解説者が絶句してしまった。感動とさまざまな想いが巡った一年目だった。
  • 野崎昌一
    1987年

    それまでは意識していなかった母国GPの素晴らしさを感じた。

    1986年Hondaが初のF1コンストラクターズチャンピオンに輝く。そして翌87年、中嶋悟さんが日本人初のレギュラーシートを獲得。当時、日本でF1中継はなくTBSがダイジェストで深夜に放送していた。フジテレビのモータースポーツといえば、インターTECとスーパークロスくらいで内心羨ましかった記憶がある。1月末に部長に呼ばれ『今年はF1中継が始まる。お前はそれにかけろ』と言われた。全くの初体験。どういう実況がいいのか?どんな資料が必要なのか?不安の塊でブラジルへ向かった。地球の裏側での開幕戦中継。スタートの瞬間、鳥肌が立った事を今でも覚えている。
    夏、ヨーロッパを転戦し鈴鹿での87年日本GP。メイン実況は大川アナだったが、その分レポートをしながら、正直楽しめた。中嶋さんが通るとエキゾーストと共に大きな歓声が何度となく響いた鈴鹿。それまでは意識していなかった母国GPの素晴らしさを感じた。
    88年からプロ野球ニュースのメイン司会者となりF1中継からは外れる事となったが、毎年鈴鹿の日本GPだけは行かせてもらった。
    日本GPではこんな事もあった。2000年の鈴鹿。この年シドニーオリンピックでの実況中継を終えて帰国、CSのスタジオ担当だった。決勝の日曜日の朝、起きたら全く声が出ない。シドニーの終わりで引いた風邪の影響、アナウンサーになって初めてのアクシデントだった。F1の判るアナウンサーは全員鈴鹿、東京には誰もいない。やむなく原稿用紙にお詫びを書き放送開始。ゲストだった大林素子さんに筆談で解説の森脇さんに聞くことを指示。正に筆談実況。この放送を見ていた人は相当貴重だと思う。
  • 馬場鉄志
    1991年

    『ありがとう』『お疲れさま』『完全燃焼!』。5年間、F1サーカスで闘ってきた、我らが中嶋悟の鈴鹿最後のレース。

    3日間で34万人の観客を飲み込んだ、1991年の日本GP。あの日の、体をつつみこむような熱気が、今もよみがえる。
    それは、セナが、3度目のワールドチャンピオンを決定したレース。スタンドにはブラジル国旗、マンセルのユニオンジャックが、風にはためく。
    しかし、圧倒的にスタンドに翻ったのは、何千、何万という日の丸であった。
    『ありがとう』『お疲れさま』『完全燃焼!』。5年間、F1サーカスで闘ってきた、我らが中嶋悟の鈴鹿最後のレース。
    この日のメインキャストは、間違いなく中嶋悟であった。
    戦闘力で劣るティレルホンダV10を駆る中嶋は、15番グリッドからのスタート、この日も苦しいレースを強いられる。
    しかし、7周目のストレートでリジェのブーツェンを豪快に抜いた。地鳴りのような歓声がおこった。
    マンセルのリタイアで、早々にセナのチャンピオンが決まった。セナは僚友ベルガーを抜いて、悠然とトップに立つ。
    中嶋も幾度となく走りこんできた鈴鹿で、素晴らしいドライビングを見せる。
    ドイツ、ホッケンハイムで引退発表してから3ヵ月、F1ファンの、中嶋ファンの誰もが、この日が訪れるのを、怖れ、それぞれの心の中で、何度も咀嚼した。そして彼の勇姿を心にとどめようと、スタンドで、テレビの前で、その走りにかつ目していた。
    F1レーサーとして5年間、決して順風満帆ではなかったが、彼の質朴で誠実な人柄を、ファンは愛した。
    前年、後輩の鈴木亜久里が上がった表彰台。『先に行かれっちゃったね、でもよかった、おめでとう』そう語った中嶋が、今度こそ鈴鹿の表彰台に…7位まで上がってきた!「このまま走り続けてくれ」誰もがそう願っていた。
    しかし、31周目、夢は突然、終わりを告げた。S字コーナーのタイヤバリヤに、制御を失ったカーナンバー3が突きささった。無念のリタイア、一瞬スタンドが凍りついた。
    マシンから脱出してしばらく、タイヤバリヤの上方にたたずみ、足を痛そうにしていたが、彼は、思い出したように、ヘルメットを抱え、スタンドに向かって手を振りながら、コースを小走りに横切った。何度も何度もファンに手を振った。申し訳なさそうに、手を振った。最終ラップ、セナがベルガーにトップを譲って、この日のレースは幕を閉じた。
    中嶋は、テレビのインタビューに『ハンドルが動かなくなった。しょうがないよね』硬い表情でつぶやいた。サスペンショントラブルであった。
    夕映えが鈴鹿の山並みを染めても、多くのファンが、立ち去り難くサーキットに残っていた。
    ようやく秋風が立ちはじめたのは、深更になってからであった。
  • 三宅正治
    1990年

    日本人初のF1表彰台。鈴木亜久里さんの笑顔は最高に輝いていた。

    「とんでもないことだ!」と、今宮さんが叫んだ。
    僕にとって、初めての日本GPは信じられない、いや、信じたくない光景から始まった。
    砂塵に消えた赤と白。
    90年のタイトルをかけたセナプロ対決は、僅か8秒で終焉を迎えた。
    この年からF1実況を始めた僕にとって、「F1とは、まごうかたなき人と人の戦いなのである」という事を、改めて感じさせてくれた、忘れられないシーンであった。
    そして最後には更に脳裏に刻みこまれるシーンが・・・。
    日本人初のF1表彰台。鈴木亜久里さんの笑顔は最高に輝いていた。
    記者会見で彼は、英語でのスピーチを終え、日本語でこう話した。
    「もっと英語がうまくなってから表彰台に登るはずだったのに・・・。」
    想定外だったというようにジョークを飛ばしたが、彼は必ずそこに立つということを誰よりも確信していた。
    また、新しいシーズンが始まる。
    F1とはテクノロジーの戦いだけではない、人と人が織り成す戦い絵巻なのだということを知らしめるシーンを残して欲しい。
    23年たってもこうやって思い返せるように。
    そういえば、こんなことも覚えている。
    ワンツーを決めたベネトン2台のウイニングランを古舘さんはこう実況した 「まさに、F1界のWink!」
    実にシュールだ。
    (注:Winkとは1990年当時大人気だった女性デュオのことです。)
  • 塩原恒夫
    1996年

    「ヴィルヌーブ、コースアウト〜!1・2コーナーでクラッシュ!!」

    「ヴィルヌーブ、コースアウト〜!1・2コーナーでクラッシュ!!」
    マイクのスイッチを入れて、興奮のまま伝えたのが、生で目の前で見た初めてのワールドタイトル決定の瞬間だった。
    1996年10月13日、自身5度目の日本GP体験は、鈴鹿サーキットのEスタンドという、スタート、1・2コーナーからS字までをも見渡せる、まさに特等席。そこに、特別に実況席を設け、メインの三宅アナウンサーにリポートを入れるのが、私の役割だった。
    シーズン最終第16戦は、ウィリアムズチームメイト同士によるチャンピオン決定戦。デーモン・ヒルにとっては、ルーキーのジャック・ヴィルヌーブ相手に譲れない、史上初の親子2代で頂点へあと1ポイントの舞台だった。だからこそ、レース中盤過ぎのライバルのリタイアは、そのまま栄光の瞬間につながった。
    その後、佐藤琢磨の大奮闘、小林可夢偉の表彰台と感動のシーンは、ホーム鈴鹿だからこそ。世界選手権のステージにふさわしいニッポンの秋がある。
  • 竹下陽平
    2010年

    「小林可夢偉のヘアピンオーバーテイク」です。

    初めて見た鈴鹿のレースが1997年片山右京ラスト日本GPという、F1では新参者の私が僭越ながら選ばせていただくのは「2010年小林可夢偉のヘアピンオーバーテイク」です。放送席で森脇基恭さんが思わず涙した、あのレースです。あの年はブリヂストンタイヤの撤退が決まっていて、F1から日本企業がいなくなってしまうという寂寥感が充満した中での日本GPでした。
    スタートでハードタイヤを選択した可夢偉は、前半は我慢のレースを強いられるはず。それなのにヘアピンでアルグエルスアリのインを差してズバッとオーバーテイク!「無茶をしちゃ駄目だ」と解説の右京さん。更にタイヤ交換をした後、同じアルグエルスアリを今度はアウトからオーバーテイク!「ヘアピンでアウトから抜いたドライバーを初めて見た」とこれもまた右京さん。そうそう、その時に思わず「こんなにワクワクさせてくれるドライバーがかつていたでしょうか」と実況、「どうもすみません」と右京さん。
    右京さん、あの時はごめんなさい。
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