小林稔

(日本レース写真家協会 会長)

メディアとしてモータースポーツの写真を撮り始めてから45年の時が経った。いったい何度、鈴鹿サーキットを訪れたのだろうか。200回? 300回? そのなかで一番の思い出は何かと考えてみる。

すぐに思い浮かぶのは、1978年、自動車雑誌カーグラフィックの写真部に入社し、駆け出しだったその年の11月に行われた全日本F2選手権「JAF鈴鹿グランプリ」。当時、鈴鹿サーキットはヨーロッパからドライバー、チームを招聘し、海外との交流を積極的に行っていた。
1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース
1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース
この全日本F2最終戦に参戦したのは、既にF1にも乗っているR.パトレーゼ、D.ピローニ、そしてヨーロッパF2チャンピオンのR.アルヌー、B.ジャコメリ、さらにこの年のイギリスF3チャンピオンのD.ウォーウィックというビッグネームの5人だ。それを迎え撃つ日本のドライバーは高橋国光、長谷見昌弘、高橋健二、星野一義、松本恵二、中嶋悟ら10人の選手たちだった。
R.パドレーゼ

R.パドレーゼ

D.ピローニ

D.ピローニ

R.アルヌー

R.アルヌー

B.ジャコメリ

B.ジャコメリ

D.ウォーウィック

D.ウォーウィック

それまで過去にF1日本GPは2度開催されたものの、当時、F1は遠い遠い海外の話で情報も少なく、彼らがF2で鈴鹿を走ることによってヨーロッパのドライバーのレベルがわかるのではないかとワクワクしながら鈴鹿に向かったことを思い出す。
R.アルヌー(写真左)とD.ピローニ(写真右)
R.アルヌー(写真左)とD.ピローニ(写真右)
決勝レースは日本人ドライバーの活躍が素晴らしかった。序盤から星野がトップに立ったが、後方では海外勢とのバトルが繰り広げられ、ファインダーの中には絶えず複数のマシンが飛び込んできた。ヘアピンで撮影していた私の前で、独走と思えた星野がマシントラブルでストップし、トップに立った中嶋も終盤に高橋国光にかわされ、彼にとってグランプリタイトルとして初優勝となり、このレースは幕を閉じた。
1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

1978年JAF鈴鹿グランプリ自動車レース

ジャコメッリはマシントラブルで優勝戦線から離脱したもののファステストラップを残し、結果は伴わなかったがビッグネームの海外勢は5人とも鈴鹿に何かしらの足跡を残していった。そしてそれからも外国からの参戦が続き、その後、鈴鹿でF1が開催され、日本人ドライバーが世界で活躍することとなった。1978年の「JAF鈴鹿グランプリ」は、その流れの大きな節目となるレースだったのではないかと今でも思っている。

自分はまだ若く、この世界に入ったばかりだったが、この「黒船来襲」の衝撃は今でも忘れることが出来ないレースである。

鈴鹿サーキット開場60周年、おめでとうございます。

私が所属する日本レース写真家協会では、その年一番のフォトジェニックなドライバーや団体に対し「JRPA AWARD」を送っていますが、2006年に鈴鹿サーキットを選出しました。

その選考理由は、長期にわたってビッグイベントを継続開催し、そのイベントの結果や運営を通じ、観る者すべてに大きな感動を与えてくれたこと。その企業努力と運営姿勢は大きな評価を持って称えられるものです。また、我々取材者に対しても常に協力的で親和的な姿勢を持ち続けたことは感謝の念に堪えません。この選考理由は、今でも会員一同、思いは変わりません。

これからも今まで以上にモータースポーツの聖地として発展し続けて行くことを、心からお祈り申し上げます。

※内容は予告なく変更となる場合がございます。
※使用している写真・イラストはイメージです。