2022/02/17
柿元邦彦
(日産/ニスモ・アドバイザー)
日本で最初の本格的なレーシングサーキットとして誕生した鈴鹿サーキット(以下鈴鹿)は遊園地を併設するユニークなサーキットである。その由縁は、モータースポーツがクルマ社会の発展のために出来ることはないかを考える中で、幼い子供たちにサウンドと共にクルマに馴染んで貰おうというコンセプトが生まれ、親子で訪れる遊園地併設という形がとられたと聞いている。今もそれは引き継がれており、多くのモータースポーツファンやクルマの愛好家を育んできたわけで正に日本のモータースポーツの聖地と言っても過言ではない。
高速、中速、低速域に適切に対応しないと速く走れない多彩なコーナーに、ストレートも長く、上り下りもある文字通りエンジン、シャシー、そしてドライバーにとって総合的な力量を試されるサーキットで、それを支えるオフィシャルも一流なのでF1ドライバーたちからも称賛されている。また上空から眺める全体像は人が横たう姿に見え官能的でさえある。
そして、総合力が試される鈴鹿は日産にとって相性の良いサーキットでもある。スーパーGTでは鈴鹿に来ると息を吹き返し、GT-Rによる表彰台独占や、予選最後尾から14台抜きの優勝でテイル・トゥ・ウインの新語を産むなど活躍の場となっている。
もともとクルマは好きだったが、1963〜1964年頃の鈴鹿での日本GPの報道などでモータースポーツに強く関心を持つようになり、1966年まだ学生時代にル・マンとモンテカルロラリーを描いた映画「男と女」を観て、モータースポーツを稼業としようと決めた訳だが、この前段の鈴鹿を知らなければ今の自分はなかったに違いない。
日産に入社して間もない駆け出しエンジニアの時に、テスト車がトラブルにより130Rで飛び出す大きな事故が起きた。また全日本GT選手権レースの予選後の車検で燃料タンク容量で意図せぬ違反も発覚した。これらは自らの成長につながる教訓として今も心中の深いところで鎮座している。 2003年の最終戦でR34 GT-Rが有終の美を飾り、2008年にR35 GT-Rがデビューウインを果たしたのも鈴鹿であった。当時「R34の最後を勝ってチャンピオンを決め、R35はデビューウインとチャンピオンも獲る」と大袈裟に公言していたので、ハラハラドキドキで長い間続いた眠れぬ夜に鈴鹿が終止符を打ってくれた訳である。
ありがとう、鈴鹿サーキット。