高橋二朗

(JMS日本モータースポーツ記者会 会長)

1980年代の終わり。

ヨーロッパ、オランダの北海沿岸にあるザントフォールトサーキットのピットにいた。シーズン前、海からの風が肌に刺さるような寒さだった。レイトンハウスF1のプライベートテストの取材で当地を訪れていた。

テストのスタッフ、サーキットの職員以外、われわれしかいないと思っていたら、ラム皮のコートを着た口髭を蓄えた痩身の老人が近づいてきて「日本人かな?」と尋ねてきた。「そうです」と答えると。「ノートとペンを貸してくれ」と。

そしてボクのノートにゆっくりと何かを書き始めた。そこには、まるで幼児が落書きしたような、小さな文字らしきものが書かれていた。それがカタカナで【ジョンフーゲンホルツ】と書かれていたのが分かるまでに数秒要した。そして、それが分かってハッとした表情のボクに老人が微笑み、多くを語らず、手を振って去っていった。
60年前に鈴鹿サーキットは竣工した。

桂木洋二:編、企画/編集:GP企画センター、発売元:株式会社山海堂の【日本モーターレース史】に1960年から1962年までのコースデザインの経過が掲載されている。5回目(最終)のデザイン変更が行われたのが1月15日。そして完成式が9月20日と記されている。三重県鈴鹿市稲生町の松林の丘陵地帯で行われた突貫工事によって国内初、6,004mのパーマネント・レーシング・サーキットが誕生した。
このサーキットの設計に深く関わったのがオランダ人のジョン・フーゲンホルツ氏だ。お会いした当時はすでに70歳後半という年齢だったろう。ザントフールトの支配人を長く務められていたことを後から知った。鈴鹿をはじめ、ヨーロッパの複数サーキットの新設、改修を手がけている。
鈴鹿サーキットデザイン初案
鈴鹿サーキットデザイン初案
最終デザインを見ると、現在の鈴鹿サーキットは、シケインの追加、デグナーカーブの改修や一部コーナーの改修以外1962年の当時と大きく変わっていない。F1GPのホストコースとなった鈴鹿は、多くのF1ドライバーからDemanding Circuit(御し難いサーキット)として世界にその名を今なお轟かす。
1960年初頭。鈴鹿の親会社である本田技研工業がカミナリ族の暴走によって2輪産業の社会的な風当たりに対して、走行するスポーツ性をアピールすることが急務であると考えた。また、レース参戦/観戦という興行面だけを重視せずに子供にもバイク、自動車に親しんでもらえること。交通安全教育の重要性というものを今なお経営方針としている。

鈴鹿サーキット60周年おめでとうございます。これからも宜しくお願い申し上げます。

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