2022/02/10
吉村不二雄
鈴鹿で思い出すのが1964年の鈴鹿18時間耐久。8月1日、夜8時にスタートし、翌2日の昼すぎ2時にチェッカーを受ける耐久レースです。オヤジ(ヨシムラ創業者・吉村秀雄)は九州勢の総監督として2チームを率いました。ヨシムラチームはCB72で250ccクラスへ倉留福生/渡辺親雄/高武富久美で、福岡ホンダチームはヨシムラのフルチェーンマシンCB77で、251cc以上クラスへ松本明/緒方政治/青木一夫でエントリー。福岡からメカニックを合わせて総勢12〜13人で鈴鹿を目指しました。
自分は、まだ中学生だったが、九州の人間の負けじ魂というのはものすごくて、あの時も「一発かましてやる。俺たちの力を見せてやる」と、大人たちの熱気を子供ながらに感じていました。
あの時代の国道はほとんど舗装されていなくて、やっと名神高速道路が開通したという頃でした。福岡から18時間かけて鈴鹿に到着し、日本初の本格的な完全舗装クローズドサーキットを見た時は、本当に感動しました。
レースはヨシムラチームと福岡ホンダチームの九州勢が、ホンダ社内チームと激しく争う展開。POPチューンのマシン2台、CB72は速かったがリタイヤ、CB77の福岡ホンダチームが見事優勝。オヤジ達は、なんてカッコ良いのだろう、皆がヒーローだと思いました。賞品を抱えきれないほどもらって、また18時間かけて福岡に戻ったけれど、帰りの道中は、ずっと、やった! という高揚した気分だったことも鮮明に覚えています。
1965年のロードレース世界選手権鈴鹿大会に参戦した時、オヤジ達はCB77の整備に追われていました。夜半過ぎに犬の鳴き声のようなカン高い6気筒のエンジン音が鈴鹿製作所の方から聞こえてきて、あっちもやっているなと闘志を掻き立てられたし、グリッドに整列したレーサーマシンのエンジン音は忘れられません。
1978年、鈴鹿8耐の第1回大会で優勝した時には、自分はもう30歳で、オヤジとやり合い大喧嘩しながらの戦いだったけれど、8耐優勝の花火を家族で見上げたことも大切な思い出です。