吉村不二雄

2輪においても4輪においても、鈴鹿はモータースポーツ文化の聖地でしょう。もし鈴鹿サーキットがなかったら、今の2輪と4輪の発展はなかった。鈴鹿に来ると本田宗一郎さんの先見の明を思います。

鈴鹿で思い出すのが1964年の鈴鹿18時間耐久。8月1日、夜8時にスタートし、翌2日の昼すぎ2時にチェッカーを受ける耐久レースです。オヤジ(ヨシムラ創業者・吉村秀雄)は九州勢の総監督として2チームを率いました。ヨシムラチームはCB72で250ccクラスへ倉留福生/渡辺親雄/高武富久美で、福岡ホンダチームはヨシムラのフルチェーンマシンCB77で、251cc以上クラスへ松本明/緒方政治/青木一夫でエントリー。福岡からメカニックを合わせて総勢12〜13人で鈴鹿を目指しました。

自分は、まだ中学生だったが、九州の人間の負けじ魂というのはものすごくて、あの時も「一発かましてやる。俺たちの力を見せてやる」と、大人たちの熱気を子供ながらに感じていました。

あの時代の国道はほとんど舗装されていなくて、やっと名神高速道路が開通したという頃でした。福岡から18時間かけて鈴鹿に到着し、日本初の本格的な完全舗装クローズドサーキットを見た時は、本当に感動しました。

レースはヨシムラチームと福岡ホンダチームの九州勢が、ホンダ社内チームと激しく争う展開。POPチューンのマシン2台、CB72は速かったがリタイヤ、CB77の福岡ホンダチームが見事優勝。オヤジ達は、なんてカッコ良いのだろう、皆がヒーローだと思いました。賞品を抱えきれないほどもらって、また18時間かけて福岡に戻ったけれど、帰りの道中は、ずっと、やった! という高揚した気分だったことも鮮明に覚えています。

1965年のロードレース世界選手権鈴鹿大会に参戦した時、オヤジ達はCB77の整備に追われていました。夜半過ぎに犬の鳴き声のようなカン高い6気筒のエンジン音が鈴鹿製作所の方から聞こえてきて、あっちもやっているなと闘志を掻き立てられたし、グリッドに整列したレーサーマシンのエンジン音は忘れられません。

1978年、鈴鹿8耐の第1回大会で優勝した時には、自分はもう30歳で、オヤジとやり合い大喧嘩しながらの戦いだったけれど、8耐優勝の花火を家族で見上げたことも大切な思い出です。
2007年鈴鹿8耐
2007年鈴鹿8耐
新型コロナウィルスの影響で鈴鹿8耐が2年開催されず、ヨシムラが世界耐久選手権で2021チャンピオンになれたことをファンの皆さんの前で報告出来ずに残念に思っています。今年の鈴鹿8耐はもちろんですが、今後の鈴鹿に期待するなら、MotoGP™やスーパーバイク世界選手権も開催してほしい。鈴鹿は最高峰レベルの大会がふさわしいサーキットだと思っています。
©YOSHIMURA SERT Motul
©YOSHIMURA SERT Motul

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