"JAFグランプリとは?"21回を数えるJAFグランプリ、その歴史をおさらい

 現在は春・秋と、年2回開催されている鈴鹿サーキットのスーパーフォーミュラ。その内、秋のレースには伝統の「JAF鈴鹿グランプリ」の名が掛けられているが、今回で21回目となるJAF鈴鹿グランプリのはじまりは、なんと1974年にまで遡るのだ。これまでJAF鈴鹿グランプリは、どんなドライバーやマシンが活躍してきたのだろうか?ここではその歴史を振り返ってみよう。
 
Photo :SAN-EI
 国内モータースポーツの統括団体JAF(日本自動車連盟)は、1973年にモータースポーツ振興策として国内モータースポーツに「全日本ドライバーズ選手権」を掛けた。そのF2000部門の初代チャンピオンには、ヒーローズ所属の黒澤元治が輝いた(※欧州F2は市販エンジンブロックを使用するが、日本では純レーシングエンジンを使うため厳密にはF2とは異なるものの、ほぼ同等のものとしてF2000と呼称した)。

 2年目の全日本F2000には、1969年と1970年に懸けられていた「JAF グランプリ」のタイトルがF2000最終戦鈴鹿に掛けられた。これが「JAF鈴鹿グランプリ」の始まりだ。1974年のJAF鈴鹿グランプリの優勝者は、春に英国F1レースに出場した高原敬武、2位は欧州F2で活躍した桑島正美が入った。
1974年最初のJAF鈴鹿グランプリウイナーの高原敬武(マーチ742・BMW)
1974年最初のJAF鈴鹿グランプリウイナーの高原敬武(マーチ742・BMW)
Photo :SAN-EI
 このレースで星野一義がトップフォーミュラデビューを果たす。しかし星野のマシンは型落ちで、予選も5位スタートだったがそのマシンで3位表彰台デビューを果たす。そして星野は翌1975年のJAF鈴鹿グランプリにはポール・トゥ・フィニッシュでビッグタイトルと、ドライバーチャンピオンを獲得している。さらに1976年にはトップチームヒーローズレーシングからF2000への参戦と、ティレル007によるF1イン・ジャパンへの参戦というチャンスを得た。星野はF2000/F2とFP(フォーミュラパシフィック)あわせて6度のJAF鈴鹿グランプリを制している。
1975年JAF鈴鹿グランプリパレードラップに臨む入賞者。左から3位高原敬武、優勝星野一義、2位桑島正美。
1975年JAF鈴鹿グランプリパレードラップに臨む入賞者。左から3位高原敬武、優勝星野一義、2位桑島正美。
Photo :SAN-EI
1975年優勝、星野のマシン(マーチ742・BMW)
1975年優勝、星野のマシン(マーチ742・BMW)
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 JAF鈴鹿グランプリにはたびたび海外のトップドライバーが参戦した。1975年にはジャック・ラフィット(1976年優勝)、1977年にはすでにシャドウでF1デビューしていたリカルド・パトレーゼが来日し優勝した。この年はケケ・ロズベルグ、ディディエ・ピローニも出場する。

 1978年にはさらに海外勢の参加が増え、マーチワークスのブルーノ・ジャコメリ、シェブロンワークスのR.パトレーゼ、そのほか国内チームからルネ・アルヌー、デレック・ワーウィック、D.ピローニが参戦する。そのなかで優勝したのはベテラン高橋国光だった。海外勢や先行していた中嶋悟を攻めての優勝だった。
1976年はジャック・ラフィットが優勝(シェブロンB35・BMW)
1976年はジャック・ラフィットが優勝(シェブロンB35・BMW)
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1978年ウイナーは高橋国光(コジマKE008・BMW)
1978年ウイナーは高橋国光(コジマKE008・BMW)
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 1970年代後半からは欧州F2シーズン終了後に開催されるJAF鈴鹿グランプリには海外トップドライバーが参戦し、そのまま国内チームに抜擢されるケースも増えた。

 1980年中盤、欧州F2選手権第6戦にF2用 Honda V6エンジンを搭載したラルトRH6が出場した。ドライバーはナイジェル・マンセル。そして翌年はジェフ・リースをエースに欧州F2を席捲する。レースファンはこのHonda V6エンジンの行方に注目した。

 1981年には生沢徹率いるi&iチームにF2用 Honda V6エンジンが供与された。所属ドライバーの中嶋悟はシーズン後半に連勝し、この年の全日本F2タイトルを獲得。最終戦のJAF鈴鹿グランプリには、欧州F2チャンピオンで同じHonda F2エンジンユーザーのリースとチームメイトのマイク・サックウェルが愛機ラルトRH6で出場した。そのほか欧州F2トップドライバーが来日し、ポールポジションはエジェ・エルグが獲得した。マウラーMM81・BMWにブリヂストンタイヤを装着して得たものだ。中嶋は、予選トップは逃したもののスタートからトップを奪うと後続を徐々に引き離し、そのまま優勝した。

 中嶋は翌1982年、1984年、1985年とJAF鈴鹿グランプリを制しF1へと進んだ。そして中嶋がF1ドライバーとして鈴鹿に戻って来た勇姿を観戦した子供達が、その後レースを目指すことにつながった。
1981年は中嶋悟(マーチ811・ホンダ)
1981年は中嶋悟(マーチ811・ホンダ)
Photo :SAN-EI
 JAF鈴鹿グランプリのタイトルが懸けられたのは1986年のレースまで。以降「グランプリ」のタイトルは、1987年から鈴鹿で始まる「F1日本グランプリ」に懸けられ、JAF鈴鹿グランプリの名前はしばらく日本のモータースポーツ史から姿を消した。
1986年JAF鈴鹿グランプリ。優勝した星野はすでに先行し、それを追うのはI.カペリ、中嶋悟、松本恵二、鈴木亜久里が続く。
1986年JAF鈴鹿グランプリ。優勝した星野はすでに先行し、それを追うのはI.カペリ、中嶋悟、松本恵二、鈴木亜久里が続く。
Photo :SAN-EI
 F1ブームと好景気に支えられた国内レースでは、1987年にF2からF3000にマシンカテゴリーが替わり、スポンサーを得て続々新チームが増えた。特に全日本F3000ではブリヂストン、ダンロップ、ヨコハマと多銘柄のタイヤワークスの開発競争もあり「勝てるドライバーの獲得」が急務となった。そのため日本のトップドライバーのみならず、海外で才能を持ちながらチャンスをうかがうドライバーが招聘されることが常道となった。その中のドライバー達は日本で活躍後F1や世界耐久選手権に出場する海外のトップチームへと呼び戻されることも。

 鈴鹿に「JAFグランプリ」のタイトルが戻ってきたのは2014年のスーパーフォーミュラ。F2時代に自らがステアリングを握って熱き戦いを繰り広げたドライバーたちは、それぞれチームを率い気鋭の若手ドライバーたちをコースに送り出した。

 2014年シーズン最終戦となるJAF鈴鹿グランプリは、フォーミュラニッポン時代の2012年から導入された2レース制が引き継がれた。マシンは前年までのスイフト製SF13(3.4LV8エンジン搭載)からダラーラ製のSF14に変更された最初のシーズンだった。「クイック&ライト」のコンセプトで設計されたSF14には、Hondaとトヨタの2Lターボ専用レーシングエンジンが搭載される。このエンジンは550馬力を発生し、更にオーバテイクシステムでレース中の追い抜きを容易にしている。タイヤはブリヂストンのワンメイク(2015年まで)。この年はレース1で2位、レース2で優勝した中嶋一貴がチャンピオンを獲得した。

 2レース制のJAF鈴鹿グランプリは2016年でいったん終了、2020年に一度復活している。
 2017年は荒天で決勝が中止された。当時TEAM無限からスーパーフォーミュラに出場、石浦宏明と選手権争いをしていたピエール・ガスリーが「スーパーフォーミュラのタイトル獲得のため」トロ・ロッソからのF1アメリカグランプリを欠場しJAF鈴鹿グランプリに出場したことでも話題を集めた。
 
2017年JAF鈴鹿グランプリの予選に出場したP.ガスリー。
2017年JAF鈴鹿グランプリの予選に出場したP.ガスリー。
Photo :SAN-EI
 第21回目を迎える今年のJAF鈴鹿グランプリでは、どんなドラマが待ち受けているのだろうか。
2021年のJAF鈴鹿グランプリのスタートシーン。 レースの醍醐味であるデッドヒートは変わらない。
2021年のJAF鈴鹿グランプリのスタートシーン。
レースの醍醐味であるデッドヒートは変わらない。
Photo :SAN-EI

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