SUZUKA Sound of ENGINE 2019

CONTENTS


Wayne Rainey

ウェイン・レイニー氏

Wayne Rainey

ウェイン・レイニーの歩み

 1977年にダートトラックでレースキャリアをスタートさせたウェイン・レイニー。ケニー・ロバーツとフレディ・スペンサーが激しいチャンピオン争いを展開した1983年、Hondaマシンを駆りAMAスーパーバイクチャンピオンを獲得する。

 1984年にロバーツからの誘いで世界グランプリの250ccクラスに参戦するが、その後AMAスーパーバイクに復帰、そこで1987年にHondaでチャンピオンを獲得。すると1988年からはチームロバーツの一員となり、世界グランプリの500ccクラスにフル参戦を開始する。

  • Wayne Rainey 1
  • Wayne Rainey 2

 AMA時代からのライバル、SUZUKIのケビン・シュワンツとの戦いではいくつもの名勝負を残すが、先行逃げ切りの"レイニーパターン"は、この頃に確立された。また、どれだけ後続を引き離していてもまったくペースを落とさずに戦う姿勢は"ミスター100パーセント"とも呼ばれた。

 1990年から1992年まで、世界グランプリの500ccクラスで3連覇を達成。V4が確実視された1993年、突然のアクシデントにより選手生活にピリオドを打った。

 翌年はチーム監督として復帰。原田哲也、ケニー・ロバーツJr.、阿部典史らを走らせている。


Eddie Lawson

エディー・ローソン氏

Eddie Lawson

エディー・ローソンの歩み

 ダートトラックで腕を磨くとその後にロードレースに転向。1980年にはKawasakiのライダーとして鈴鹿8耐に参戦。そして1981年、1982年にはKawasakiライダーとしてAMAスーパーバイクチャンピオンを獲得。翌1983年にYAMAHAに移籍するとケニー・ロバーツのチームメイトとして世界グランプリの500ccクラスに参戦。この年はロバーツとフレディ・スペンサーが激しいチャンピオン争いを展開した年だが、ローソンにとっては初めてのYAMAHA製2ストローク500ccマシンで、そしてほとんど初めてのサーキットでの戦いだったにも関わらず、ランキング4位を獲得。

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  • Eddie Lawson 2

 翌1984年、参戦2年目にして世界グランプリの500ccクラスでチャンピオンを獲得。攻めるとき、守るときを的確に捉えたそのライディングから“ステディ・エディ”と呼ばれた。

 1986年、1988年に世界グランプリの500ccクラスでチャンピオンを獲得。1989年にはHondaに電撃移籍するが、マシンメーカーを変更してもチャンピオンを獲得した。

 1990年にYAMAHAに戻り、平忠彦とのペアで鈴鹿8耐優勝。1991年と1992年はCAGIVAで世界グランプリの500ccクラスに参戦し、現役から退いた。


Kenny Roberts

ケニー・ロバーツ氏

Kenny Roberts

ケニー・ロバーツの歩み

 現在においても、グランプリ界のみならずロードレース界でその名を轟かせているのが、"キング"ことケニー・ロバーツだ。

 1965年、14歳でアマチュアレースにデビューすると順調にその才能を育み、1973年と1974年には2年連続でアメリカ国内レースのAMAグランドナショナルチャンピオンに輝いた。そして1978年から世界グランプリの500ccクラスに参戦を開始すると、いきなり3連覇を達成する。1981年は同クラスでランキング3位。1982年は4位。そして迎えた1983年は、Hondaの新鋭フレディ・スペンサーと激戦を繰り返す。シーズンを通しての2人の戦いは現在でも語り継がれるほどだが、チャンピオン争いに敗れたロバーツはそのまま引退する。

  • Kenny Roberts 1
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 ロバーツのキングたる由縁は好成績だけでない。リアタイヤを滑らせるスライド走法、そしてハングオンスタイルを確立させたのはロバーツだった。さらに現在では当たり前となっているが、世界グランプリに巨大なモーターホームを持ち込んだのはロバーツが初めてだ。また、1985年に平忠彦とのペアで鈴鹿8耐に参戦したが、その際にパーソナルトレーナーを同行させており、これも現在の先駆けとなった。

 1997年にはチームKRを興し、オリジナルマシンで世界グランプリに参戦。また、長男のケニー・ロバーツJr.は2000年に世界グランプリの500ccクラスでチャンピオンとなり、親子二代で世界チャンピオンとなった。

 ロバーツは2000年にMotoGP™殿堂入りしている。


Tyrrell P34

Tyrrell P34

ティレルP34物語

協力: GP Car Story

 今では俄かに信じられないかもしれないが、1970年代の後半、子供達にアイドル並みの人気を誇るF1マシンがあった。「ティレルP34」。それよりも「タイレル6輪車」と表記した方が、しっくりくるという方も多いことだろう。

 時はまさにスーパーカー・ブームの全盛期で、プラモデル、ミニカー、ラジコンはもとより、スーパーカー消しゴム、スーパーカーカード、果ては筆箱や下敷き、Tシャツの絵柄など、男のもつあらゆるグッズにその姿が描かれ、6輪や8輪のF1が活躍するテレビアニメまで放映されたほどだ。

  • Tyrrell P34 1
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photo: Minardi Day

ティレルとデレック・ガードナー

 なぜ前代未聞の6輪F1マシンが生まれ、たった2年で消え去っていったのか? それは一人の男の存在を無くしてに語ることはできない。

 彼の名はデレック・ガードナー。若かりし頃からオースティン・セブンを改造しレースに出場していた彼は、1960年にトランスミッションなどを製造するファーガソン・リサーチに入社。ファーガソンの関与した4輪駆動のインディカー・プロジェクトをきっかけにレースの世界に入り込む。そこでレーシングカーにおける4WDの可能性に目覚めた彼は、STPのアンディ・グラナテッリに対し6輪&4WD(フロントの2輪がステア機能を持ち、残りの4輪を駆動)のインディカーを発案。開発の提案までしている。

 結局それは実現しなかったが、ガードナーはその後マトラF1の4WDプロジェクトに参画。そこでマトラのセミワークス格のF1チーム「マトラ・インターナショナル」を運営していたケン・ティレルと運命の出会いを果たすこととなる。

 1969年、ティレルはマトラのシャシーにコスワースDFVを搭載したマシンでF1に挑戦。ジャッキー・スチュワートとともに初のワールド・チャンピオンの座に輝いたが、自社のV12エンジンの使用を迫るマトラと決裂。1970年からコンストラクターとして独立することとなる。その際にオリジナル・マシン開発の設計を打診したのが、ファーガソンに在籍していたガードナーだったのだ。全くの未経験者ではあったが、ガードナーが設計したティレルの1号車001は、1970年終盤の北米3連戦に出場すると、結果はリタイアに終わったものの、全てのレースでフロントロウ・スタート、トップ快走という素性の良さを見せつける。

 そして1971年シーズンには、スチュワートが11戦中6勝を挙げダブルタイトルを獲得。73年にもシーズン5勝を挙げたスチュワートがチャンピオンに輝き、ガードナーは一躍F1界のトップデザイナーとなった。

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photo: Minardi Day

前代未聞の6輪車の誕生

 ティレル・チームが成功を収める傍で、ガードナーはコスワースDFV+ヒューランドFG400というお決まりのパッケージを持った“キットカーF1”に限界を感じるようになっていた。頭ひとつ抜き出るためにはどうしたらいいか? 彼が思いついたのが「ドラッグの低減がパワーアップに繋がる」という考え方だった。

 そこでガードナーは、長年温めていた6輪車のアイデアを実行に移すことになる。それは、ティレルの十八番であったフロント・スポーツカーノーズの後ろに小径のフロントタイヤを4本配置することでフロント周りの空気抵抗を低減。最高速の向上とともに、タイヤの接地面が増えることで、メカニカルグリップとストッピングパワーも増大するというものであった。

 ガードナーの34番目の作品を示すP34(プロジェクト34)と名付けられたマシンは秘密裏に開発が進められ75年に完成。当初は試作モデルの予定だったが、テストの結果既存の007よりも速かったうえ、007の戦闘力に陰りが見えていたこともあり、76年シーズンからの実戦投入が決定した。

 1976年のF1第4戦、スペインGPでティレルP34はパトリック・ドゥパイエに託されてデビューを果たす。いきなり同僚ジョディ・シェクターの乗る007を大きく上回る予選3位を獲得したドゥパイエのP34は、決勝でもアクシデントに見舞われるまで3位を快走する活躍をみせた。

 そして第6戦モナコGPではシェクターが2位、ドゥパイエが3位とW表彰台を獲得。続く第6戦スウェーデンGPではシェクターがポールポジション、ドゥパイエも4番グリッドにつける速さをみせ、決勝ではなんとシェクター、ドゥパイエの順で1-2フィニッシュを飾ったのである!

 以降も表彰台の常連として活躍を続け、ドライバーズ・ランキングでシェクターが3位、ドゥパイエが4位、コンストラクターズでも3位という好成績でシーズンを終えることとなった。

 そんな76年シーズンで日本のファンにとって忘れられないのが、映画『RUSH』でも描かれた最終戦F1世界選手権イン・ジャパンでの活躍だ。サーキットに現れたP34には、ひらがなで「たいれる」そして「しえくたあ」、「どぱいえ」とドライバー名を書いたスペシャルマーキングが施され、日本での知名度は一気に上がる(これ以降、しばらくタイレルと呼ばれるようになるのだが)こととなった。そして大雨に見舞われたレースでドゥパイエが快走。マリオ・アンドレッティのロータス77に次ぐ2位でゴールし、期待に応えたのだった。

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photo: JT & Pierluigi collection, Massimiliano Serra

短かった活躍期間

 周囲の予想とは裏腹に望外な好成績を収めたP34に対し、ガードナーは翌77年シーズンに向けてさらなる改良を施すことになる。ボディはフルカバーされ空力的に洗練されたほか、フロントトレッドをさらに短縮。ドライバーにはシェクターに変わりロニー・ピーターソンを迎えた。そしてオフシーズンにポールリカールで行われたテストでは、ドゥパイエがコースレコードを記録。チャンピオンの有力候補に挙げられるまでになったのだ。

 ところがミシュラン・タイヤの参戦によってタイヤ開発競争が過熱したこともあり、グッドイヤーがフロント10インチ・タイヤの開発を凍結したことで、それまで順調だった歯車が狂い始める。シーズン序盤こそドゥパイエが気を吐き、南アフリカGPで3位、ロングビーチGPで4位入賞を果たすものの、次第に戦闘力は低下。カウルを前年型に戻したり、足りないフロントグリップを稼ぐために、空気抵抗低減のコンセプトを反故にするワイドトレッド化を施すなど、迷走を続ける。それとともにチーム内の雰囲気も険悪なものとなり、イタリアGPでティレルとガードナーが決裂。ガードナーがF1の世界から去ったことで、P34の未来は断たれることとなった。

 そんな状況の中でドゥパイエは一人奮起し、第15戦カナダGPで2位、そして最終戦となった第16戦日本GPで3位に入り、短かったP34の花道を飾ったのだった。

 その後、6輪のコンセプトは各チームによって研究が続けられ、マーチ、フェラーリがテストにまで漕ぎ着けたものの断念。1982年末にウィリアムズがリヤ4輪のFW08Bを製作しテストで好結果を残すが、FIAは83年からの4輪以外のマシンと4輪駆動を禁止するレギュレーションを発行。6輪車がグランプリ・シーンに登場する機会は永遠に失われてしまった。

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photo: SAN-EI

ガードナーとP34 のその後

 でもこれでティレルP34の物語が終わったわけではない。レースの世界から足を洗った後も、ガードナー自身は6輪車の可能性を諦めていなかった。

 1990年代にヨーロッパでヒストリックF1によるサラブレッド・グランプリ・シリーズが始まると、プロのヒストリックレーサーとして活躍するマーティン・ストレットンは、サイモン・ブルが所有していたティレル005で参戦を開始。1995年にガードナーと知り合うと、彼を口説いて自身のチームに招き入れた。

 まもなくストレットンが005でトップグループの常連になると、ガードナーはオーナーのブルに新たなプロジェクトを提案する。それはP34を擁してのサラブレッド・グランプリ参戦だった。そのアイデアに賛同した彼らは、早速エイヴォン・タイヤに働きかけ専用タイヤを開発。1999年からの参戦を開始した。

 すると初戦のポールリカールで、ストレットンのドライブするP34/6(77年にピーターソンのレースカーだった個体)はいきなりフロントロウを獲得。決勝でもオーバーオール3位、クラストップでフィニッシュしてみせた。そしてドニントンでまたも3位になったあと、7月のブランズハッチで見事な総合優勝を遂げたのである。

 以降、ストレットンとガードナーの二人三脚は続き、P34はサラブレッド・グランプリのトップマシンのひとつとなった。その活躍する姿を見て、ガードナーは自身の理論が正しかったことが証明されたと、大変満足していたという。

 2011年1月、ガードナーは79年の生涯を静かに閉じた。それを境にしてストレットンとP34の出番も減り、2012年シーズンを最後にヒストリックF1レースに姿を見せることはなくなった。

 ティレルP34は76年から77年にかけてシャシーナンバーP34/2から、P34/7までが実戦で使用されており、そのほとんどが現存すると思われる。しかし、その珍しさからコレクターズ・アイテムと化しており、ヒストリックレースはもとより、サーキットイベントなどでも走行する姿を披露することは、非常に稀になってきている。

 そうした状況において、鈴鹿サーキットでティレルP34の走る姿を見られるというのは、実に貴重な機会といえるのだ。


Pier Luigi Martini

ピエルルイジ・マルティニ氏

Pierluigi Martini

ピエルルイジ・マルティニ氏より、日本のファンの皆様へ

「日本で初めてレースをしたときのことを今でも覚えています。それは1988年のことでした。その年に私は、デトロイトで開かれた米国GPで一生忘れられない経験をしました。それは、ミナルディチーム、そして自分自身でもF1での初ポイントを獲得する事ができたのです。そのおかげで、私はF1に継続して参戦できることができました。そして、いざ日本GP。今まで味わったことのない不思議な国、日本。私は一瞬にして虜になりました。その時感じた日本の人々の素晴らさは今でも覚えています。電車や食べ物も驚きでした。それ以来私は時々、寿司と刺身を食べに行かないと気が済まなくなってしまいました」

「鈴鹿サーキットは私が今まで経験した中で最も過酷なレーシングトラックのひとつだと思っています。ここで速く走ることは本当の挑戦であり、私はその目的に向かって夢中になりました。鈴鹿は世界で最も完璧なトラックのひとつであり、一番好きなレーシングトラックであり、舗装も最高級だし、とてもプロフェショナルで勇気のあるオフィシャルやマーシャルが揃っています。そんな鈴鹿サーキットは、世界一のレーシングトラックだと思います」

「今でも忘れられない日本GPでの一番の思い出と言えば、1991年です。フェラーリエンジンを搭載した私のミナルディM191は、7番グリッドを獲得できる、とても良い車でした。そして、決勝レースではいいスタートを切りました。私を追い越そうとしていたベネトン・フォードに乗ったミハエル・シューマッハの前にとどまり、39ラップまではポジションをコントロールできていました。しかし電子系統に問題が発生し、やむを得ずリタイアとなってしまいました」

「私が鈴鹿で体験した、ファンの皆さんに感じたことを申します。日本のファンの皆様はモータースポーツに大変な情熱を持ち、高い能力と高い知識を持ち、そして何よりも、最高の教育と敬意を持っていると感じています」

「私は心から、日本に完全に魅了されています。大好きな国です。そして日本の国民に対して最高の敬意と賞賛を感じます」

ピエルルイジ・マルティニ氏について

 バブル期のF1ブームを体験したことのある皆さんなら、時折上位に顔を出す陽気なイタリアンF1チーム“ミナルディ”のことを覚えているだろう。そのエースドライバーとして長らくチームを支えたのが、ピエルルイジ・マルティニだ。

 実はマルティニは、ミナルディ・チームと浅からぬ因縁をもっている。ミナルディ・チームはその名の通り、ジャン・カルロ・ミナルディが1979年に設立したレーシング・チームだが、ミナルディ自身は1972年にスクーデリア・デル・バッサトーレというプライベート・チームに参画したのをきっかけにレーシング・チームの運営に足を踏み入れた。

 フォーミュラ・イタリアで結果を残しその経営権を握ると、チームは75年にスクーデリア・エベレストと改名、F2レースへ進出する。さらに76年にはフェラーリのサテライト・チームとして312Tを擁してノン・チャンピオンシップに参戦を果たしている。その時、ドライバーに選ばれたのが、ピエルルイジ・マルティニの叔父であるジャンカルロ・マルティニであった。

 結局F1への挑戦は2戦で終了してしまったが、フェラーリからエンジン供給を受けF2参戦を継続。79年にはミナルディ・チームを名乗るようになり、オリジナルF2マシンの開発にも着手。本格的なレーシングカー・コンストラクターとしての歩みを始めることとなる。

■F3王者からF1へ

 一方、ピエルルイジ・マルティニは10代からカートレースを始め、20歳になった1981年にイタリアF3選手権にステップアップ。1983年に史上最年少でヨーロッパF3選手権のチャンピオンを獲得した。その年の7月にミザノで行われたヨーロッパF2選手権にミナルディ・チームから出場。デビュー戦で2位入賞を果たしたのが、全ての始まりであった。

 1984年に予選不通過ながらもトールマンからスポットでF1デビューを果たしたマルティニは、85年にミナルディとともにF1へと進出する。

 ところが両者ともに経験不足ということもあり結果を出すことができず、マルティニはチームを離脱。86年にヨーロッパF3000選手権へと活動の舞台を移し、ラルトRT20DFVで2勝を挙げランキング3位を獲得。87年、88年もF3000で活動を続けていたのだが、カナダGPをもってミナルディのエースだったエイドリアン・カンポスが引退したのを受け、デトロイトGPから急遽チームに合流。そのレースでチーム初となる6位入賞を果たすという快挙を成し遂げた。

 その後も89年のイギリスGPでルイス・ペレス・サラとともにW入賞を果たして予備予選入りを回避したり、ポルトガルGPでたった1周ながらもラップリーダーを記録。また90年開幕戦のフェニックスGPでは予選で2番グリッドを獲得するなど、チーム史に残る成績を次々と残し、名実ともにミナルディのエースドライバーとなった。

■世界屈指のP34コレクター

 91年にミナルディは悲願のフェラーリV12エンジンを獲得。その活躍に期待がかかったが、マルティニをもってしてもサンマリノGPとポルトガルGPで4位(これがチームの最上位記録となった)に入るにとどまった。そしてマルティニは92年にフェラーリ・エンジンとともにライバルであるスクーデリア・イタリアへ移籍。しかし結果にはつながらず、93年シーズン途中からミナルディへ復帰するも、95年のドイツGPをもってF1から引退した。

 その後スポーツカー・レースに活動の場を移したマルティニは、1999年にヤニック・ダルマス、ヨアイム・ヴィンケルホックとともにBMW V12 LMRでル・マン24時間総合優勝を達成。レーサー生活の有終の美を飾ったのだった。

 レース引退後は実業家、投資家として活動をしているマルティニだが、近年、友人であるパオロ・バリッラに勧められて、過去に自身の乗っていたマシン、ラルトRT20、ミナルディM189を手に入れたのをきっかけにレーシングカーのコレクションに開眼。2017年には15歳の時にモナコGPで見て以来、憧れだったというティレルP34/5を入手する。そして今ではP34/5に加え、P34/2も所有する世界屈指のティレルP34コレクターとなった。

ピエルルイジ・マルティニ氏プロフィール
  • ボローニャ県イモラ在住
  • 1961年4月23日生まれ
■主なプロレースキャリア
  • レースエントリー:255回
  • 決勝レーススタート:248回
  • 優勝:16回
  • 表彰台:34回
  • ポールポジション:9回
  • ファステストラップ:14回
■F1におけるキャリア
  • レースエントリー:124回
  • 決勝レーススタート:119回
  • 入賞(6位以内):10回
  • 1984年 トールマン(イタリアGPのみ)
  • 1985年 ミナルディ
  • 1988年 ミナルディ
  • 1989年 ミナルディ
  • 1990年 ミナルディ
  • 1991年 ミナルディ
  • 1992年 スクーデリア・イタリア
  • 1993年 ミナルディ
  • 1994年 ミナルディ
  • 1995年 ミナルディ
  • ミナルディの初ポイント獲得ドライバー(1988年 アメリカGP)
  • ミナルディ最初で最後のリードラップを記録(1989年 ポルトガルGP)
  • ミナルディ最初で最後のフロントロースタート(1990年 アメリカGP)
■F1以外の主な戦績
  • 1982年 イタリアンF3選手権 ランキング3位
  • 1983年 ヨーロピアンF3選手権 チャンピオン
  • 1986年 国際F3000 ランキング2位
  • 1999年 ル・マン24時間 総合優勝(チームメート:ヤニック・ダルマス/ヨアヒム・ヴィンケルホック。マシン:BMW V12 LMR)
  • ※内容は予告なく変更となる場合がございます。
  • ※使用している写真・イラストはイメージです。

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