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SUZUKA Sound of ENGINE 2019


Wayne Rainey

Wayne Rainey

ウェイン・レイニー氏

ウェイン・レイニーの歩み

 1977年にダートトラックでレースキャリアをスタートさせたウェイン・レイニー。ケニー・ロバーツとフレディ・スペンサーが激しいチャンピオン争いを展開した1983年、Hondaマシンを駆りAMAスーパーバイクチャンピオンを獲得する。

 1984年にロバーツからの誘いで世界グランプリの250ccクラスに参戦するが、その後AMAスーパーバイクに復帰、そこで1987年にHondaでチャンピオンを獲得。すると1988年からはチームロバーツの一員となり、世界グランプリの500ccクラスにフル参戦を開始する。

  • Wayne Rainey 1
  • Wayne Rainey 2

 AMA時代からのライバル、SUZUKIのケビン・シュワンツとの戦いではいくつもの名勝負を残すが、先行逃げ切りの"レイニーパターン"は、この頃に確立された。また、どれだけ後続を引き離していてもまったくペースを落とさずに戦う姿勢は"ミスター100パーセント"とも呼ばれた。

 1990年から1992年まで、世界グランプリの500ccクラスで3連覇を達成。V4が確実視された1993年、突然のアクシデントにより選手生活にピリオドを打った。

 翌年はチーム監督として復帰。原田哲也、ケニー・ロバーツJr.、阿部典史らを走らせている。


Eddie Lawson

Eddie Lawson

エディー・ローソン氏

エディー・ローソンの歩み

 ダートトラックで腕を磨くとその後にロードレースに転向。1980年にはKawasakiのライダーとして鈴鹿8耐に参戦。そして1981年、1982年にはKawasakiライダーとしてAMAスーパーバイクチャンピオンを獲得。翌1983年にYAMAHAに移籍するとケニー・ロバーツのチームメイトとして世界グランプリの500ccクラスに参戦。この年はロバーツとフレディ・スペンサーが激しいチャンピオン争いを展開した年だが、ローソンにとっては初めてのYAMAHA製2ストローク500ccマシンで、そしてほとんど初めてのサーキットでの戦いだったにも関わらず、ランキング4位を獲得。

  • Eddie Lawson 1
  • Eddie Lawson 2

 翌1984年、参戦2年目にして世界グランプリの500ccクラスでチャンピオンを獲得。攻めるとき、守るときを的確に捉えたそのライディングから“ステディ・エディ”と呼ばれた。

 1986年、1988年に世界グランプリの500ccクラスでチャンピオンを獲得。1989年にはHondaに電撃移籍するが、マシンメーカーを変更してもチャンピオンを獲得した。

 1990年にYAMAHAに戻り、平忠彦とのペアで鈴鹿8耐優勝。1991年と1992年はCAGIVAで世界グランプリの500ccクラスに参戦し、現役から退いた。


Kenny Roberts

Kenny Roberts

ケニー・ロバーツ氏

ケニー・ロバーツの歩み

 現在においても、グランプリ界のみならずロードレース界でその名を轟かせているのが、"キング"ことケニー・ロバーツだ。

 1965年、14歳でアマチュアレースにデビューすると順調にその才能を育み、1973年と1974年には2年連続でアメリカ国内レースのAMAグランドナショナルチャンピオンに輝いた。そして1978年から世界グランプリの500ccクラスに参戦を開始すると、いきなり3連覇を達成する。1981年は同クラスでランキング3位。1982年は4位。そして迎えた1983年は、Hondaの新鋭フレディ・スペンサーと激戦を繰り返す。シーズンを通しての2人の戦いは現在でも語り継がれるほどだが、チャンピオン争いに敗れたロバーツはそのまま引退する。

  • Kenny Roberts 1
  • Kenny Roberts 2

 ロバーツのキングたる由縁は好成績だけでない。リアタイヤを滑らせるスライド走法、そしてハングオンスタイルを確立させたのはロバーツだった。さらに現在では当たり前となっているが、世界グランプリに巨大なモーターホームを持ち込んだのはロバーツが初めてだ。また、1985年に平忠彦とのペアで鈴鹿8耐に参戦したが、その際にパーソナルトレーナーを同行させており、これも現在の先駆けとなった。

 1997年にはチームKRを興し、オリジナルマシンで世界グランプリに参戦。また、長男のケニー・ロバーツJr.は2000年に世界グランプリの500ccクラスでチャンピオンとなり、親子二代で世界チャンピオンとなった。

 ロバーツは2000年にMotoGP™殿堂入りしている。


Tyrrell P34

Tyrrell P34

登場イベント: Tyrrell P34 伝説のシックスホィーラー
(東コース)
日時: 11月16日(土) 15:50 〜 16:15
11月17日(日) 15:25 〜 15:50

タミヤ所有 Tyrrell P34の展示が決定

Tyrrell P34

 株式会社タミヤが保有する、貴重な実車のティレルP34を、SUZUKA Sound of ENGINEで展示。

  • ■展示日時: 2019年11月16日(土)、17日(日)各日7:45-17:30
  • ■展示場所: 国際レーシングコース パドック内センターハウス2F
  • ■観覧料金: 無料
    ※展示エリアにご入場するには、「SUZUKA Sound of ENGINE 2019」観戦券が必要です(パドック"プラス"などのオプションチケットは不要です)
  • ■協力: 株式会社タミヤ
ティレルP34物語

協力: GP Car Story

 今では俄かに信じられないかもしれないが、1970年代の後半、子供達にアイドル並みの人気を誇るF1マシンがあった。「ティレルP34」。それよりも「タイレル6輪車」と表記した方が、しっくりくるという方も多いことだろう。

 時はまさにスーパーカー・ブームの全盛期で、プラモデル、ミニカー、ラジコンはもとより、スーパーカー消しゴム、スーパーカーカード、果ては筆箱や下敷き、Tシャツの絵柄など、男のもつあらゆるグッズにその姿が描かれ、6輪や8輪のF1が活躍するテレビアニメまで放映されたほどだ。

  • Tyrrell P34 1
  • Tyrrell P34 2

photo: Minardi Day

ティレルとデレック・ガードナー

 なぜ前代未聞の6輪F1マシンが生まれ、たった2年で消え去っていったのか? それは一人の男の存在を無くしてに語ることはできない。

 彼の名はデレック・ガードナー。若かりし頃からオースティン・セブンを改造しレースに出場していた彼は、1960年にトランスミッションなどを製造するファーガソン・リサーチに入社。ファーガソンの関与した4輪駆動のインディカー・プロジェクトをきっかけにレースの世界に入り込む。そこでレーシングカーにおける4WDの可能性に目覚めた彼は、STPのアンディ・グラナテッリに対し6輪&4WD(フロントの2輪がステア機能を持ち、残りの4輪を駆動)のインディカーを発案。開発の提案までしている。

 結局それは実現しなかったが、ガードナーはその後マトラF1の4WDプロジェクトに参画。そこでマトラのセミワークス格のF1チーム「マトラ・インターナショナル」を運営していたケン・ティレルと運命の出会いを果たすこととなる。

 1969年、ティレルはマトラのシャシーにコスワースDFVを搭載したマシンでF1に挑戦。ジャッキー・スチュワートとともに初のワールド・チャンピオンの座に輝いたが、自社のV12エンジンの使用を迫るマトラと決裂。1970年からコンストラクターとして独立することとなる。その際にオリジナル・マシン開発の設計を打診したのが、ファーガソンに在籍していたガードナーだったのだ。全くの未経験者ではあったが、ガードナーが設計したティレルの1号車001は、1970年終盤の北米3連戦に出場すると、結果はリタイアに終わったものの、全てのレースでフロントロウ・スタート、トップ快走という素性の良さを見せつける。

 そして1971年シーズンには、スチュワートが11戦中6勝を挙げダブルタイトルを獲得。73年にもシーズン5勝を挙げたスチュワートがチャンピオンに輝き、ガードナーは一躍F1界のトップデザイナーとなった。

  • Tyrrell P34 3
  • Tyrrell P34 4

photo: Minardi Day

前代未聞の6輪車の誕生

 ティレル・チームが成功を収める傍で、ガードナーはコスワースDFV+ヒューランドFG400というお決まりのパッケージを持った“キットカーF1”に限界を感じるようになっていた。頭ひとつ抜き出るためにはどうしたらいいか? 彼が思いついたのが「ドラッグの低減がパワーアップに繋がる」という考え方だった。

 そこでガードナーは、長年温めていた6輪車のアイデアを実行に移すことになる。それは、ティレルの十八番であったフロント・スポーツカーノーズの後ろに小径のフロントタイヤを4本配置することでフロント周りの空気抵抗を低減。最高速の向上とともに、タイヤの接地面が増えることで、メカニカルグリップとストッピングパワーも増大するというものであった。

 ガードナーの34番目の作品を示すP34(プロジェクト34)と名付けられたマシンは秘密裏に開発が進められ75年に完成。当初は試作モデルの予定だったが、テストの結果既存の007よりも速かったうえ、007の戦闘力に陰りが見えていたこともあり、76年シーズンからの実戦投入が決定した。

 1976年のF1第4戦、スペインGPでティレルP34はパトリック・ドゥパイエに託されてデビューを果たす。いきなり同僚ジョディ・シェクターの乗る007を大きく上回る予選3位を獲得したドゥパイエのP34は、決勝でもアクシデントに見舞われるまで3位を快走する活躍をみせた。

 そして第6戦モナコGPではシェクターが2位、ドゥパイエが3位とW表彰台を獲得。続く第6戦スウェーデンGPではシェクターがポールポジション、ドゥパイエも4番グリッドにつける速さをみせ、決勝ではなんとシェクター、ドゥパイエの順で1-2フィニッシュを飾ったのである!

 以降も表彰台の常連として活躍を続け、ドライバーズ・ランキングでシェクターが3位、ドゥパイエが4位、コンストラクターズでも3位という好成績でシーズンを終えることとなった。

 そんな76年シーズンで日本のファンにとって忘れられないのが、映画『RUSH』でも描かれた最終戦F1世界選手権イン・ジャパンでの活躍だ。サーキットに現れたP34には、ひらがなで「たいれる」そして「しえくたあ」、「どぱいえ」とドライバー名を書いたスペシャルマーキングが施され、日本での知名度は一気に上がる(これ以降、しばらくタイレルと呼ばれるようになるのだが)こととなった。そして大雨に見舞われたレースでドゥパイエが快走。マリオ・アンドレッティのロータス77に次ぐ2位でゴールし、期待に応えたのだった。

  • Tyrrell P34 5
  • Tyrrell P34 6

photo: JT & Pierluigi collection, Massimiliano Serra

短かった活躍期間

 周囲の予想とは裏腹に望外な好成績を収めたP34に対し、ガードナーは翌77年シーズンに向けてさらなる改良を施すことになる。ボディはフルカバーされ空力的に洗練されたほか、フロントトレッドをさらに短縮。ドライバーにはシェクターに変わりロニー・ピーターソンを迎えた。そしてオフシーズンにポールリカールで行われたテストでは、ドゥパイエがコースレコードを記録。チャンピオンの有力候補に挙げられるまでになったのだ。

 ところがミシュラン・タイヤの参戦によってタイヤ開発競争が過熱したこともあり、グッドイヤーがフロント10インチ・タイヤの開発を凍結したことで、それまで順調だった歯車が狂い始める。シーズン序盤こそドゥパイエが気を吐き、南アフリカGPで3位、ロングビーチGPで4位入賞を果たすものの、次第に戦闘力は低下。カウルを前年型に戻したり、足りないフロントグリップを稼ぐために、空気抵抗低減のコンセプトを反故にするワイドトレッド化を施すなど、迷走を続ける。それとともにチーム内の雰囲気も険悪なものとなり、イタリアGPでティレルとガードナーが決裂。ガードナーがF1の世界から去ったことで、P34の未来は断たれることとなった。

 そんな状況の中でドゥパイエは一人奮起し、第15戦カナダGPで2位、そして最終戦となった第16戦日本GPで3位に入り、短かったP34の花道を飾ったのだった。

 その後、6輪のコンセプトは各チームによって研究が続けられ、マーチ、フェラーリがテストにまで漕ぎ着けたものの断念。1982年末にウィリアムズがリヤ4輪のFW08Bを製作しテストで好結果を残すが、FIAは83年からの4輪以外のマシンと4輪駆動を禁止するレギュレーションを発行。6輪車がグランプリ・シーンに登場する機会は永遠に失われてしまった。

  • Tyrrell P34 7
  • Tyrrell P34 8

photo: SAN-EI

ガードナーとP34 のその後

 でもこれでティレルP34の物語が終わったわけではない。レースの世界から足を洗った後も、ガードナー自身は6輪車の可能性を諦めていなかった。

 1990年代にヨーロッパでヒストリックF1によるサラブレッド・グランプリ・シリーズが始まると、プロのヒストリックレーサーとして活躍するマーティン・ストレットンは、サイモン・ブルが所有していたティレル005で参戦を開始。1995年にガードナーと知り合うと、彼を口説いて自身のチームに招き入れた。

 まもなくストレットンが005でトップグループの常連になると、ガードナーはオーナーのブルに新たなプロジェクトを提案する。それはP34を擁してのサラブレッド・グランプリ参戦だった。そのアイデアに賛同した彼らは、早速エイヴォン・タイヤに働きかけ専用タイヤを開発。1999年からの参戦を開始した。

 すると初戦のポールリカールで、ストレットンのドライブするP34/6(77年にピーターソンのレースカーだった個体)はいきなりフロントロウを獲得。決勝でもオーバーオール3位、クラストップでフィニッシュしてみせた。そしてドニントンでまたも3位になったあと、7月のブランズハッチで見事な総合優勝を遂げたのである。

 以降、ストレットンとガードナーの二人三脚は続き、P34はサラブレッド・グランプリのトップマシンのひとつとなった。その活躍する姿を見て、ガードナーは自身の理論が正しかったことが証明されたと、大変満足していたという。

 2011年1月、ガードナーは79年の生涯を静かに閉じた。それを境にしてストレットンとP34の出番も減り、2012年シーズンを最後にヒストリックF1レースに姿を見せることはなくなった。

 ティレルP34は76年から77年にかけてシャシーナンバーP34/2から、P34/7までが実戦で使用されており、そのほとんどが現存すると思われる。しかし、その珍しさからコレクターズ・アイテムと化しており、ヒストリックレースはもとより、サーキットイベントなどでも走行する姿を披露することは、非常に稀になってきている。

 そうした状況において、鈴鹿サーキットでティレルP34の走る姿を見られるというのは、実に貴重な機会といえるのだ。


Pierluigi Martini

Pier Luigi Martini

ピエルルイジ・マルティニ氏

ピエルルイジ・マルティニ氏より、
日本のファンの皆様へ

「日本で初めてレースをしたときのことを今でも覚えています。それは1988年のことでした。その年に私は、デトロイトで開かれた米国GPで一生忘れられない経験をしました。それは、ミナルディチーム、そして自分自身でもF1での初ポイントを獲得する事ができたのです。そのおかげで、私はF1に継続して参戦できることができました。そして、いざ日本GP。今まで味わったことのない不思議な国、日本。私は一瞬にして虜になりました。その時感じた日本の人々の素晴らさは今でも覚えています。電車や食べ物も驚きでした。それ以来私は時々、寿司と刺身を食べに行かないと気が済まなくなってしまいました」

「鈴鹿サーキットは私が今まで経験した中で最も過酷なレーシングトラックのひとつだと思っています。ここで速く走ることは本当の挑戦であり、私はその目的に向かって夢中になりました。鈴鹿は世界で最も完璧なトラックのひとつであり、一番好きなレーシングトラックであり、舗装も最高級だし、とてもプロフェショナルで勇気のあるオフィシャルやマーシャルが揃っています。そんな鈴鹿サーキットは、世界一のレーシングトラックだと思います」

「今でも忘れられない日本GPでの一番の思い出と言えば、1991年です。フェラーリエンジンを搭載した私のミナルディM191は、7番グリッドを獲得できる、とても良い車でした。そして、決勝レースではいいスタートを切りました。私を追い越そうとしていたベネトン・フォードに乗ったミハエル・シューマッハの前にとどまり、39ラップまではポジションをコントロールできていました。しかし電子系統に問題が発生し、やむを得ずリタイアとなってしまいました」

「私が鈴鹿で体験した、ファンの皆さんに感じたことを申します。日本のファンの皆様はモータースポーツに大変な情熱を持ち、高い能力と高い知識を持ち、そして何よりも、最高の教育と敬意を持っていると感じています」

「私は心から、日本に完全に魅了されています。大好きな国です。そして日本の国民に対して最高の敬意と賞賛を感じます」

ピエルルイジ・マルティニ氏について

 バブル期のF1ブームを体験したことのある皆さんなら、時折上位に顔を出す陽気なイタリアンF1チーム“ミナルディ”のことを覚えているだろう。そのエースドライバーとして長らくチームを支えたのが、ピエルルイジ・マルティニだ。

 実はマルティニは、ミナルディ・チームと浅からぬ因縁をもっている。ミナルディ・チームはその名の通り、ジャン・カルロ・ミナルディが1979年に設立したレーシング・チームだが、ミナルディ自身は1972年にスクーデリア・デル・バッサトーレというプライベート・チームに参画したのをきっかけにレーシング・チームの運営に足を踏み入れた。

 フォーミュラ・イタリアで結果を残しその経営権を握ると、チームは75年にスクーデリア・エベレストと改名、F2レースへ進出する。さらに76年にはフェラーリのサテライト・チームとして312Tを擁してノン・チャンピオンシップに参戦を果たしている。その時、ドライバーに選ばれたのが、ピエルルイジ・マルティニの叔父であるジャンカルロ・マルティニであった。

 結局F1への挑戦は2戦で終了してしまったが、フェラーリからエンジン供給を受けF2参戦を継続。79年にはミナルディ・チームを名乗るようになり、オリジナルF2マシンの開発にも着手。本格的なレーシングカー・コンストラクターとしての歩みを始めることとなる。

F3王者からF1へ

 一方、ピエルルイジ・マルティニは10代からカートレースを始め、20歳になった1981年にイタリアF3選手権にステップアップ。1983年に史上最年少でヨーロッパF3選手権のチャンピオンを獲得した。その年の7月にミザノで行われたヨーロッパF2選手権にミナルディ・チームから出場。デビュー戦で2位入賞を果たしたのが、全ての始まりであった。

 1984年に予選不通過ながらもトールマンからスポットでF1デビューを果たしたマルティニは、85年にミナルディとともにF1へと進出する。

 ところが両者ともに経験不足ということもあり結果を出すことができず、マルティニはチームを離脱。86年にヨーロッパF3000選手権へと活動の舞台を移し、ラルトRT20DFVで2勝を挙げランキング3位を獲得。87年、88年もF3000で活動を続けていたのだが、カナダGPをもってミナルディのエースだったエイドリアン・カンポスが引退したのを受け、デトロイトGPから急遽チームに合流。そのレースでチーム初となる6位入賞を果たすという快挙を成し遂げた。

 その後も89年のイギリスGPでルイス・ペレス・サラとともにW入賞を果たして予備予選入りを回避したり、ポルトガルGPでたった1周ながらもラップリーダーを記録。また90年開幕戦のフェニックスGPでは予選で2番グリッドを獲得するなど、チーム史に残る成績を次々と残し、名実ともにミナルディのエースドライバーとなった。

世界屈指のP34コレクター

 91年にミナルディは悲願のフェラーリV12エンジンを獲得。その活躍に期待がかかったが、マルティニをもってしてもサンマリノGPとポルトガルGPで4位(これがチームの最上位記録となった)に入るにとどまった。そしてマルティニは92年にフェラーリ・エンジンとともにライバルであるスクーデリア・イタリアへ移籍。しかし結果にはつながらず、93年シーズン途中からミナルディへ復帰するも、95年のドイツGPをもってF1から引退した。

 その後スポーツカー・レースに活動の場を移したマルティニは、1999年にヤニック・ダルマス、ヨアイム・ヴィンケルホックとともにBMW V12 LMRでル・マン24時間総合優勝を達成。レーサー生活の有終の美を飾ったのだった。

 レース引退後は実業家、投資家として活動をしているマルティニだが、近年、友人であるパオロ・バリッラに勧められて、過去に自身の乗っていたマシン、ラルトRT20、ミナルディM189を手に入れたのをきっかけにレーシングカーのコレクションに開眼。2017年には15歳の時にモナコGPで見て以来、憧れだったというティレルP34/5を入手する。そして今ではP34/5に加え、P34/2も所有する世界屈指のティレルP34コレクターとなった。

ピエルルイジ・マルティニ氏
プロフィール

ボローニャ県イモラ在住 1961年4月23日生まれ

主なプロレースキャリア
レースエントリー255回
決勝レーススタート248回
優勝16回
表彰台34回
ポールポジション9回
ファステストラップ14回
F1におけるキャリア
レースエントリー124回
決勝レーススタート119回
入賞(6位以内) 10回
  • 1984年 トールマン(イタリアGPのみ)
  • 1985年 ミナルディ
  • 1988年 ミナルディ
  • 1989年 ミナルディ
  • 1990年 ミナルディ
  • 1991年 ミナルディ
  • 1992年 スクーデリア・イタリア
  • 1993年 ミナルディ
  • 1994年 ミナルディ
  • 1995年 ミナルディ
  • ミナルディの初ポイント獲得ドライバー(1988年 アメリカGP)
  • ミナルディ最初で最後のリードラップを記録(1989年 ポルトガルGP)
  • ミナルディ最初で最後のフロントロースタート(1990年 アメリカGP)
F1以外の主な戦績
  • 1982年
    イタリアンF3選手権 ランキング3位
  • 1983年
    ヨーロピアンF3選手権 チャンピオン
  • 1986年
    国際F3000 ランキング2位
  • 1999年
    ル・マン24時間 総合優勝(チームメート:ヤニック・ダルマス/ヨアヒム・ヴィンケルホック。マシン:BMW V12 LMR)

Group C

Group C

グループC物語

グループC夜明け前

 「Cカーが終わってホッとした。毎回"今回も生きて帰ってくれてよかった"って思ってたくらいだから」。グループCの時代を振り返るとき星野一義は、決まってこういう趣旨の話をしてくれる。あの"日本一速い男"にも、そう言わしめるグループCとはどういう存在だったのだろうか。

 1970年代初頭、ポルシェ917とフェラーリ512との5リッター・モンスター対決に沸いたスポーツカー・レースは、3リッター・グループ5プロトタイプ規定にリセットされることとなり1972年からワールド・チャンピオンシップがスタートした。

 F1とのエンジンの互換性を意識した新しいスポーツカー・レースには、フェラーリ、アルファ・ロメオ、マトラ、ガルフ・ミラージュDFV、ローラDFVなどが参戦。ル・マンを頂点に選手権は盛り上がりをみせるが、1973年の第一次オイルショックの影響でワークスが続々と撤退。そのテコ入れに1976年から施行されたグループ5シルエットフォーミュラを世界メイクス選手権に、3リッター・グループ6を世界スポーツカー選手権とするレギュレーション変更も目論見が外れ、1970年代の終盤には両クラスともポルシェ935と936のワンメイクレースといった状態に成り下がっていた。

 そんなスポーツカー・レースの窮地を救うべく、FIAは新たなカテゴライズの編成に着手。それまでグループ1~8に分けられていたカテゴリーをアルファベットに変更。併せてレギュレーションを大幅に見直し、使用燃料総量を守れば、排気量は自由というシンプルなシリーズを作り上げることとなる。

  • ポルシェ935(1981年 鈴鹿1000km)
    ポルシェ935
    (1981年 鈴鹿1000km)
打倒ポルシェを目指して

 それが1982年から施行されたグループC規定である。

 もう少し具体的に言うと、車体は全長4800mm以下、全幅2000mm以下のクローズドボディで、最低車両重量800kg、燃料タンク容量100リッター以下。またキャビン下に1000mm×800mmのフラットボトムを有することも規定されていた。そしてル・マン24時間では25回以下、それ以外の1000km及び6時間レースでは5回に給油回数が制限されていたのも特徴であった。

 FIAとしては最低生産台数を設けず、エンジン形式自由、排気量無制限の省燃費レースとすることで、多くの自動車メーカーの参入を促す目的だったが、1982年にWEC(世界耐久選手権)シリーズが始まるとグループC用に準備を整えたのは956を擁するポルシェのみで、ランチアはグループ6規定のLC1で参戦、フォードやロンドーもグループ6ベースの急造マシンで参戦する有様だった。

 序盤こそ、燃費に優れたランチアがシリーズをリードしたものの、936/81譲りの2.65リッター水平対向6気筒ツインターボを、ポルシェ初のアルミ・モノコック&グラウンドエフェクト・シャシーをもつ956、そしてジャッキー・イクス、デレック・ベル、ヨッヘン・マス、バーン・シュパンといった一流ドライバーと圧倒的な組織力をもつポルシェには敵わず、6月のル・マン優勝を機に反撃を開始。圧倒的な強さでシリーズを席巻し王座を獲得したのである。

 これでグループCもポルシェの独壇場と化すことが危惧されるところだったが、1983年からポルシェはカスタマーへの956の販売を開始。956のワンメイクと揶揄する声はあったものの、有力プライベーターが数多く名乗りを上げたこともあってシリーズは活性化し、様々なドラマやヒーローを生み出していく。

 その中で唯一ライバルとして気を吐いていたランチアLC2は1986年をもってワークス活動を休止。代わって1985年から本格参戦を始めたのが、トム・ウォーキンショー率いるTWRチームのジャガーだった。カーボンモノコック・シャシーに5.3リッターのV12NAエンジンを搭載した意欲作XJR-6は徐々に実力を発揮。またスイスのコンストラクターであるザウバーもこの年からメルセデス製5リッターV8ターボを搭載したC8を投入するなど、ポスト・ポルシェを狙う役者が揃いつつあった。

 そんなグループCレース(1986年よりWSPCに変更)の潮目が変わったのは1987年だ。開幕からTWRジャガーが4連勝すると、ル・マンこそ取りこぼしたものの、ついにポルシェからタイトルを奪うことに成功したのである。TWRジャガーは翌1988年にはル・マンも制覇し連覇を達成。グループCの主導権を握る存在となった。またこの年からメルセデスがチーム・ザウバー・メルセデスとして本格的にレースに復帰。シーズン5勝、ランキング2位とポルシェを上回る活躍をみせる。結局、ポルシェは1988年でワークスとしての活動を終了。これをもってグループCの第1期は幕を閉じた。

  • ジャガーXJR-6(2016年 SUZUKA Sound of ENGINE)
    ジャガーXJR-6
    (2016年 SUZUKA Sound of ENGINE)
  • ポルシェ956(1983年 鈴鹿1000km)
    ポルシェ956
    (1983年 鈴鹿1000km)
ニッポンのグループC

 日本のモータースポーツ・シーンにグループCが登場したのも1982年だ。この年の10月にWEC第7戦としてWECジャパンを富士スピードウェイで開催。迎え撃つ日本勢はロングディスタンス・シリーズなどに参戦していたマーチやシェブロンなどの2リッター・グループ6やIMSA-GTX仕様のマツダ・サバンナRX-7がほとんどだったが、唯一トムスが童夢とトヨタの協力を得て、トムス童夢セリカCを開発して参戦。望外の5位入賞を果たし、国産グループC開発の道筋を作り出す。

 迎えた1983年、全日本耐久選手権がスタート。トラスト・レーシングチームがポルシェ956を購入し圧倒的な強さを見せた一方で、トムスが童夢83Cトヨタ、童夢がRC-83C DFVを開発し参戦。日産勢もセントラル20がル・マン商会製作のLM03Cニッサン、ハセミ・モータースポーツがFRレイアウトのスカイライン・ターボC、ホシノ・レーシングがマーチ83Cニッサンを投入したほか、ムーンクラフトがマーチのシャシーを流用したC2マシン、MCSグッピーをプライベーターに販売し、一気にグループC時代へと突入することとなる。

 そして1985年の鈴鹿500kmでは童夢トムス84Cトヨタが国産マシン初優勝を達成。ル・マンでは85Cがトヨタとして初参戦を果たしたほか、10月のWECジャパンでは星野一義/松本恵二/萩原光組のマーチ85Gニッサンが、ポールtoウィンを達成するなど日本車の実力が高まるとともにバブル景気の後押しもあり参戦台数が増加。日本のグループCシーンは空前の盛り上がりをみせるようになる。

  • MCSグッピー(2018年 SUZUKA Sound of ENGINE)
    MCSグッピー
    (2018年 SUZUKA Sound of ENGINE)
  • トヨタ85CL(2016年 SUZUKA Sound of ENGINE)
    トヨタ85CL
    (2016年 SUZUKA Sound of ENGINE)
新時代への突入と突然の終焉

 1989年、グループCは最初の大きな変革を迎える。全8戦のレース距離が480kmに統一(テレビ中継に配慮したといわれた)され、ル・マンが選手権から外されたほか、参戦チームの全戦参加が義務付けられるようになった。それを受けトヨタ、日産、マツダがワークス参戦を開始する。

 開幕戦となったWSPC鈴鹿には36台ものマシンが集まり、FIAの目論見は成功したように見えた。しかし全戦参加というハードルはグループCの売りであったプライベーターの体力を削っていくことになる。さらにFIAは、さらなる自動車メーカーの参入を促すために1991年から3.5リッターNAのC1規定採用を発表(同時にシリーズ名もSWCへ変更)。いち早くプジョーが名乗りを上げたものの、期待していたF1からの参入メーカーはなく、結果としてこの判断がグループCの命取りになった。

 そうした状況下で光ったのが、1991年のマツダによるル・マン初制覇だ。従来規定のマシンに対するハンディの重さにトヨタ、日産が撤退する中、唯一の日本車として参加したマツダは、比較的緩いハンディキャップと、これまでの経験を生かし開発した787B、そして気鋭のF1ドライバーとベテランを配した万全のチーム体制でロータリー・エンジン最後のル・マンに臨み、プジョー、メルセデス、ジャガーを下して悲願の総合優勝を果たしたのである。

 1992年、SWCは3.5リッターNAのC1規定に統一され、華々しいスタートを切る予定だった。しかしいざ蓋を開けてみるとメーカーワークスはプジョー、トヨタ、マツダだけで、参加台数は一気に10台程度にまで激減してしまった。また開幕のモンツァ500kmで小河等/ジェフ・リース組のトヨタTS010が優勝を果たし、プジョーvsトヨタの白熱した戦いが予感されたものの、それ以外はプジョー905のワンサイドゲームと化し、シリーズへの注目度も下がっていく。

 結局、この年のル・マンのみグループC車両の参加を認めるなど特例措置も採られたが、参加車の減少を食い止めることはできず、1953年から形を変えながら続いてきたスポーツカー世界選手権は一旦その幕を閉じることとなったのである。

 一方、日本のグループCレースは1987年からJSPCと名称を変更し、年々その規模、参加台数を拡大する。そして1990年には日産R90CPが国産車として初のシリーズタイトルを獲得。トヨタと日産の全面対決は加熱し、1992年用の日産R92CPは最大出力800ps以上、非公式ながら最高速度400km/hを超えるモンスターマシンとなった。

 JSPCではC1規定導入後も従来のグループCマシンの参加を認め、シリーズの維持に努めてきたが、バブル景気が崩壊した1992年に参加台数が10台前後に一気に減少。トヨタ、マツダに加え日産も3.5リッター NAのC1マシンの開発を進めていたが、時代の趨勢には逆らえず、この年をもって日本のグループCレースも静かに幕を降ろすこととなった。

 それ以降スポーツカー・レースの主体はGTへと移り、プロトタイプ・スポーツはLMPマシンの登場まで冬の時代を迎える。しかし多彩な自動車メーカー、エンジン形式、マシンデザイン、ドライバーによって世界各地で展開されたグループCの時代を懐かしむ声は多く、2000年代に入るとヒストリック・レースという形で復活。今でもあの狂乱の時代の片鱗を伺うことができる。

  • マツダ787B(2016年 SUZUKA Sound of ENGINE)
    マツダ787B
    (2016年 SUZUKA Sound of ENGINE)
  • プジョー905(2016年 SUZUKA Sound of ENGINE)
    プジョー905
    (2016年 SUZUKA Sound of ENGINE)
  • 日産R90CK(2018年 SUZUKA Sound of ENGINE)
    日産R90CK
    (2018年 SUZUKA Sound of ENGINE)
  • トヨタTS010(2017年 SUZUKA Sound of ENGINE)
    トヨタTS010
    (2017年 SUZUKA Sound of ENGINE)

60's Racing Cars

60's Racing Cars

<特集>

戦後のスポーツカー・レースのはじまり

 戦後の混乱期を乗り越え、1950年にフォーミュラ1世界選手権、1953年に世界スポーツカー選手権がスタートしたことで、フォーミュラとスポーツカーという現代にまで続くモータースポーツの基本的な枠組みが確立された。

 当初、その線引きが曖昧な時代があったものの、ドライバーズ選手権主体のフォーミュラに対し、スポーツカーはマニュファクチャラーズ選手権主体のシリーズとなり、メルセデス・ベンツ、フェラーリ、マセラティ、ジャガー、アストン・マーティン、ポルシェなど名だたるメイクスがこぞって参戦、活況を呈することとなる。

 しかし1955年のル・マンにおける大事故でメルセデスが撤退。50年代後半に入るとジャガーやアストン・マーティンも徐々に活動を縮小してしまう。そこでFIAは1962年からスポーツカーに代わり、プロダクションモデルのGTカーによるチャンピオンシップをスタート。フェラーリ250GTO、ジャガーEタイプ、シェルビー・コブラ、アストン・マーティンDB4GTといった当代のスーパーカーたちが出揃い名勝負を繰り広げた。

 その一方で選手権を外された2シーター・スポーツはオーバーオールをフェラーリ、2リッター以下をポルシェが独占するような状態がしばらく続いたが、新たな刺客が訪れたことで様相が一変する。

フォードとフェラーリの全面戦争

 それがアメリカの巨人、フォードの参入だ。

 スポーツイメージを全面に押し出し、若年層への販売促進を狙うフォードは、レースへの本格参入を画策。当時のアメリカ自動車界にはメーカー自身はレースに参加しないという紳士協定が結ばれていたが、ジェネラルマネージャーだったリー・アイアコッカは社長のヘンリー・フォード2世を説き伏せ1962年6月に正式にレース活動を開始することを発表する。

 すでにシェルビーやロータスと組んでエンジン供給や資金提供など間接的な関与を進めていたフォードは当初、フェラーリの買収を画策するが失敗。それをきっかけに「打倒フェラーリ」「ル・マン24時間制覇」を目指した独自のスポーツカー開発プロジェクトがスタートする。

 こうして1964年に登場したのが、モノコックシャシーにインディ譲りの4.2リッターV8OHVユニットを搭載したミッドシップマシーン、フォードGT40である。イギリスのコンストラクター、ローラの協力を得て開発されたGT40は、いきなり王者フェラーリに匹敵するスピードを発揮。そして資金力にものを言わせたフォードは1965年から多数のワークスマシンを送り込む物量作戦を展開する。

 これに対しフェラーリもF1で培った技術、ドライバーらのリソースを結集させて応戦。その盛り上がりを受け、この年からGTに加えプロトタイプ・スポーツにもチャンピオンシップが懸けられるようになった。

 以降、世界各地のサーキットでフォードとフェラーリは全面戦争を展開。1966年のル・マンではフォードがGT40MkIIで参戦3年目にして念願の総合優勝を1-2-3という完璧な形で飾ることとなる。

 翌1967年、フォードはGT40MkIVによるル・マン制覇を手土産にワークス活動を休止。またFIAは加熱する競争を抑えるという名目で、従来の排気量無制限、生産台数不問というレギュレーションを撤廃。年間生産台数50台以上、排気量5リッター以下のスポーツカー(グループ4)と、3リッター以下のプロトタイプ(グループ6)に統一した新規定を1968年から施行する。

 これによりアメリカ製の大排気量マシンは締め出され、フェラーリも反発し68年シーズンの参戦をキャンセルする事態となるが、それまで小排気量クラスで活躍していたポルシェ、アルピーヌ、アルファ・ロメオらがグループ6へと参入。グループ4規定で参加したジョン・ワイヤ・オートモーティブのGT40と熾烈な争いを繰り広げシリーズを盛り上げた。

 そして1969年にグループ4の生産規定が25台に引き下げられたのを受け、ポルシェが917を、フェラーリが512を開発。1971年公開のスティーブ・マックイーンの映画『栄光のル・マン』で描かれた、モンスターマシンの対決という新たな時代を迎えることとなる。

  • FORD GT40 Mk.II(2018年SUZUKA Sound of ENGINE)
    FORD GT40 Mk.II
    (2018年SUZUKA Sound of ENGINE)
アメリカのスポーツカーレース・シーン

 1960年代のスポーツカー・レースを語る上でもうひとつ忘れてはならないのが、アメリカの存在だ。戦前からオーバルコースでのストックカーレースやダートトライアルなどが盛んだったアメリカでも1950年代に入ると、各地でヨーロッパ型のパーマネントサーキットが建設されるようになる。そこではSCCA(スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ)主催による市販スポーツカーを使ったローカルレースが主体であったが、フェラーリやジャガーなどヨーロッパ製の本格的なレーシングモデルが輸入されるようになると、アメリカ製エンジンを搭載したスペシャルモデルも次々に登場。1958年からはUSAC(ユナイテッド・ステイツ・オートクラブ)の手でスポーツカー・チャンピオンシップが開催され、人気を博すようになっていく。

 そして1962年、SCCAがUSACに代わり新たなスポーツカー選手権USRRC(ユナイテッド・ステイツ・ロード・レーシング・チャンピオンシップ)を開催。クーパー、ロータスなどヨーロッパ製のマシンに加え、シャパラル、コブラ(シェルビー)、スカラブといったアメリカ製マシンも参戦し、インディやNASCARと肩を並べるシリーズへと成長する。

 2シーターであれば排気量、重量、ボディサイズなどは自由、そしてスターティングマネー、賞金は高額というUSRRCは、ヨーロッパのコンストラクターの食指も動かすようになり、ローラ、ロータス、マクラーレンなどもワークス体制で参入。FIAも1965年に2シーター排気量無制限のグループ7を新設定するまでになった。

 そうした動きを受け、USRRCは1966年にCan-Am(カンナム:カナダ・アメリカン・チャレンジ・カップ)という名の国際格式レースへと発展。マクラーレン、シャパラル、ローラ、シャドウなど個性的なマシンと、当代一流のドライバーが集まる他に類を見ない選手権となり、その人気ぶりは日本のモータースポーツ界にも大きな影響を与えることになるのだ。

日本の60年代レースシーン

 では日本はどうか?

 1915年から散発的に自動車を使った競技は行われていた日本で、初のオーバル型専用コース多摩川スピードウェイが誕生したのは1936年のこと。しかし第二次世界大戦の勃発でその灯火も消え、戦後はタイムトライアルやジムカーナが有志によって行われる程度の状態だった。

 その流れを大きく変えたのが1962年に日本初の国際格式のパーマネント・サーキットとしてオープンした鈴鹿サーキットだ。ここを舞台に1963年5月3日に開幕した第1回日本グランプリ自動車レース大会こそが、日本の4輪レースの曙と言える。

 FIA-JAF公認レースであったものの、レース自体は日本の実情に合わせた細かな排気量区分でクラス分けされ、ノーマルの市販車プラスα程度のクルマによって競われた。

 そんな第1回日本グランプリにおいて、その後の日本のレース像を形作る礎になったのが、海外招待車、選手によって行われた国際スポーツカーレースである。チーム・ロータスのマネージャー、ピーター・ウォーのロータス23、ポルシェのマネージャー、フシュケ・フォン・ハンシュタインのポルシェ356Bカレラ2、ピエール・デュメイのフェラーリ250GT SWB、ジョゼ・ロゼンスキーのアストン・マーティンDB4GTザガートなどが繰り広げたレースは、当時の日本人に「黒船来襲」に匹敵する衝撃を与えたが、これを契機に日本の自動車レースは他に類を見ない急速な発展を遂げることとなる。

 1964年5月に行われた第2回日本グランプリでプリンス自動車はグロリアの2リッター直6に3連ウエーバーキャブを装着したホモロゲモデル、スカイラインGTを投入。レースでは式場壮吉の持ち込んだGT2マシン、ポルシェ904GTSに敗れたものの、生沢徹が1周のみながらトップを走ったことで、のちに「スカG伝説」と呼ばれるほどの大きな注目を浴びることとなった。

  •  Lotus 23B(2018年SUZUKA Sound of ENGINE)
    Lotus 23B
    (2018年SUZUKA Sound of ENGINE)
  •  Nissan Skyline GT-R(2017年SUZUKA Sound of ENGINE)
    Nissan Skyline GT-R
    (2017年SUZUKA Sound of ENGINE)

 それを受け、自動車メーカー各社は本格的なスポーツモデルの開発を開始。中でもプリンス自動車は打倒ポルシェを目指し1965年にグループ6規定の本格的なプロトタイプマシン、R380を開発。残念ながらこの年の日本グランプリは諸般の事情により中止となってしまい、プリンス自動車自身も日産自動車に吸収合併されてしまったが、1966年に富士スピードウェイに舞台を移した第3回日本グランプリで砂子義一が瀧進太郎のポルシェ906を破り優勝。その翌年にはヨーロッパ帰りの生沢徹が906で日産R380勢を破り優勝したことで「ポルシェvs国産勢」という対決の図式が定着するようになった。

 そのハイライトといえるのが1969年10月に行われた’69日本グランプリだ。このレースに前年からグループ7路線に舵を切った日産は6リッターV12を搭載するR382を、トヨタが新開発の5リッターV8を搭載するトヨタ7を、そしてプライベーターの草分け的存在であるタキ・レーシング・チームはポルシェワークスの917と908を擁してエントリー。その総力戦は「TNT」の戦いと呼ばれ、決勝には10万3000人もの観客が来場。テレビ中継も行われ、日本グランプリはスポーツの枠を超えた一大社会現象へと発展する。

 その一方、鈴鹿では1965年の鈴鹿300kmを皮切りに、1966年1月に燃料補給が必要な長距離レース鈴鹿500km、6月にドライバー交代を義務付けた日本初の本格的耐久レース鈴鹿1000kmがスタート。スポーツカーによる耐久レースというカテゴリーが確立されていく。

  • Nissan R382(2017年SUZUKA Sound of ENGINE)
    Nissan R382
    (2017年SUZUKA Sound of ENGINE)
  •  TOYOTA 7(2016年SUZUKA Sound of ENGINE)
    TOYOTA 7
    (2016年SUZUKA Sound of ENGINE)

 併せて林みのるがHonda S600をベースにFRPで改造したカラスを皮切りに、個人の手でHonda S600、S800をベースとしオリジナルレーシングカーの開発もスタート。マクランサ、コニリオといった市販レーサーも誕生し、レースの裾野を広げるとともに国産コンストラクター、プライベーター発展の素地を作っていくことなる。

 そういう意味においても1960年代は、世界のモータースポーツにおけるゴールデンエイジであった。

  • Macransa(2017年SUZUKA Sound of ENGINE)
    Macransa
    (2017年SUZUKA Sound of ENGINE)
  •  Coniglio(2017年SUZUKA Sound of ENGINE)
    Coniglio
    (2017年SUZUKA Sound of ENGINE)

WGP

WGP LEGEND

<特集>

世界グランプリレジェンド物語

 1980年代前半、その圧倒的な強さから世界グランプリ界でキングと呼ばれるライダーがいた。そう、それが500ccクラスを戦うYAMAHAのエース、ケニー・ロバーツだ。1978年にYAMAHAのファクトリーライダーとして500ccクラスに参戦し、3年連続でチャンピオンを獲得。初のアメリカ人チャンピオンであり、現在のグランプリで一般的になっているライディングフォームの“ハングオン”スタイルを確立させたライダーの一人としても知られ、ヨーロッパのパドックにモーターホームを持ち込んだのもこのロバーツだ。

 1983年、ロバーツは彗星の如く登場したHondaのフレディ・スペンサーとシーズンを通して激しいチャンピオン争いを展開。そして最終戦のサンマリノで2人はこれまでと同様にヒートアップした優勝争いを繰り広げる。このレースでロバーツが優勝し、スペンサーが3位ならばチャンピオンはロバーツのものとなる。この年、YAMAHAファクトリーにはエディ・ローソンが加わり、ロバーツはこの最終戦でスペンサーを巧みにブロックしながらローソンが追いつき、スペンサーをパスして2位に上がることを期待した。しかし、レースが終盤を迎えるとロバーツはローソンが来ることを諦めてスパート。スペンサーを突き放して優勝を遂げるが、スペンサーが2位になったことからチャンピオン獲得には至らなかった。

  • Kenny Robarts 1
  • Kenny Robarts 2
    ※写真はイメージです

 この1983年を最後にロバーツはグランプリを引退。これで1984年からローソンがYAMAHAのエースライダーとなる。対するスペンサーはフィジカルトラブルにより振るわず、ローソンが初タイトルを獲得。そう、ロバーツはグランプリを引退したが、その一番弟子がその想いを受け継いだ形だ。

 その後、ロバーツは自らのチームを率いて、チーム監督としてグランプリに戻ってきた。そしてそこでの愛弟子がウェイン・レイニーだった。1988年、ケニー率いるチームからケビン・マギーとのペアで鈴鹿8耐に出場。この当時、レイニーの名前は知れ渡っておらず、チームのスポットはマギーに注がれた。しかし、予選でなんとレイニーはマギーのタイムを上回ってポール・ポジションを獲得。この年の鈴鹿8耐にはTeam HRCからワイン・ガードナー、ヨシムラ・SUZUKI・siettoGP-1からケビン・シュワンツ、SHISEIDO TECH21 レーシングからは平忠彦が参戦しており、こうした猛者を抑えてのトップタイムに日本はもちろん世界中のメディアがどよめいた。さらに鈴鹿8耐初参戦ながらレースでも見事なパフォーマンスを発揮したレイニーは、2位のヨシムラ・SUZUKI・siettoGP-1を周回遅れにして優勝を遂げたのだ。

  • 1988年鈴鹿8耐 ウェイン・レイニー
    1988年鈴鹿8耐 ウェイン・レイニー
  • 1988年鈴鹿8耐表彰式
    1988年鈴鹿8耐表彰式

 一躍、時の人となったレイニーは、この1988年の500ccクラスではイギリスグランプリで初優勝を遂げるとランキング3位となった。1989年はアメリカ、ドイツ、オランダの各グランプリで優勝してランキング2位。そして1990年にいよいよレイニーは世界の頂点に立つ。この年、レイニーは鈴鹿サーキットでの開幕戦を制し、さらに第2戦アメリカグランプリでも優勝。第14戦ハンガリーグランプリはマシントラブルでリタイアとなったが、このレースの前、すなわち第13戦チェコグランプリでの優勝でチャンピオンを決定していた。そしてこの年、全15戦中7勝、2位5回、3位2回と、リタイアしたハンガリー以外はすべて表彰台に立ったのである。

 実はこの1990年は、YAMAHAからHondaへと移籍したローソンが、再びYAMAHAに復帰して、ローソンとレイニーのどちらがエースの座に就くのかも注目されていた。もちろん実績のあるローソンが上という下馬評だったが、鈴鹿サーキットでの開幕戦でレイニーは予選、決勝ともに他を圧倒。そして続くアメリカグランプリでローソンが負傷したことでレイニーがエースの座を射止めることになったが、この時点でレイニーの実力を疑う者はいなかった。レイニーは1990年から500ccクラスで3連覇を達成。そしてこのレイニーの最大のライバルが、SUZUKIのケビン・シュワンツだった。

  • 1992年 ウェイン・レイニーの走り
    1992年 ウェイン・レイニーの走り
  • 1992年 決勝レースでトップを走るウェイン・レイニー
    1992年 決勝レースでトップを走るウェイン・レイニー

 同じアメリカ人だが、寡黙なレイニー、陽気なシュワンツと2人は対照的で、それはライディングにも表れ、緻密なレイニーと豪快なシュワンツとも表現できた。そしてシュワンツの言葉を借りれば、2人は間違いなく犬猿の仲だった。しかし、レースを戦う内に2人はお互いをリスペクトし合う仲となり、それはいつしか友情に変わっていった。

 この2人の運命を変えたのが1993年の第12戦イタリア・ミサノだった。それまで優勝4回、2位3回、3位2回、5位2回と4連覇を目指していたレイニー。対するシュワンツはこの年は転倒がなく、イタリアを前に5勝と2位3回、3位2回、5位1回、リタイア1回という成績でレイニーとチャンピオン争いを展開していた。そして迎えたイタリアグランプリ。チームメイトのルカ・カダローラをパスしてトップに立ったレイニーは、好調にペースを上げていったのだが、11周目の高速コーナーでハイサイド転倒。頸椎損傷により下半身不随となりレーシングライダーとしての人生を終えることになった。

  • Wayne Rainy 1
  • Wayne Rainy 2
    ※写真はイメージです

 このレースで3位となったシュワンツは、ポイント上でレイニーを逆転。そして初のタイトルを手にしたが、「レイニーの怪我が治るなら、タイトルはいらない」と、シュワンツはレイニーとの友情を語った。また、2013年に鈴鹿8耐に出場した際、シュワンツはレイニーレプリカのヘルメットを使用。「レイニーと一緒に鈴鹿8耐を戦うんだ」と、ここでもレイニーとの深いつながりをコメントしている。

 そのシュワンツは、最大のライバルであり親友のレイニーがサーキットを離れたことでモチベーションが低下。もちろんそれまでに痛めていた傷の影響もあったのだが、1995年のシリーズ第3戦、シュワンツがグランプリ初優勝を決めた鈴鹿サーキットでの日本グランプリ後に現役引退を決め、第6戦イタリアグランプリで正式発表した。そしてこの引退に際して、シュワンツはレイニーに相談したと言われている。

 一方で、絶対エースのレイニーを突然のアクシデントで失ったYAMAHAは、2004年にバレンティーノ・ロッシがチャンピオンを獲得するまで、500ccクラスで実に10年以上にわたりライダータイトルを逸することになってしまった。レイニーはその後、1994年にマールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーを結成してチーム監督として車椅子でグランプリに復帰。原田哲也、阿部典史らが在籍したが、その監督も1998年で退任。しかし、現在でも人格者レイニーに敬意を表するライダーや関係者は多い。

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