F1

柴田久仁夫

柴田久仁夫Photo:三栄

鈴鹿サーキットを訪れるのは年に一度、F1日本GPの時だけだ。それでも1987年以来、かれこれ30年以上通っている。その間、ほとんど毎年のように名勝負が繰り広げられた鈴鹿には、数えきれない思い出がある。

その中でもっとも忘れ難いのは、最高の嬉しさと、同時に切なさを感じた2012年の日本GPだろうか。

最高に嬉しかったのは、小林可夢偉が日本人F1ドライバーとしては2004年の佐藤琢磨以来となる、3位表彰台を獲得したからだ。しかも母国レースという尋常ならざる重圧のかかる舞台で、可夢偉は予選でもレースでもキャリアベストの走りを見せてくれた。

柴田久仁夫Photo:Kunio Shibata

レッドブル、フェラーリ、マクラーレンという当時のトップチームに比べ、可夢偉の所属したザウバーは優勝経験もない純然たる中団チームだった。そんなチームのマシンを駆って、可夢偉は鈴鹿で予選4位、決勝3位の結果を出して見せた。

可夢偉は果敢な追い抜きが、高く評価されたドライバーでもあった。その実力はオーバーテイクが困難な鈴鹿で、存分に発揮された。F1マシンでは不可能とされたデグナー立ち上がりからのヘアピンのブレーキングで、可夢偉は時にインを刺し、あるいはアウト側から被せたりと、自在な攻めでライバルたちを抜き去っていった。

柴田久仁夫Photo:Kunio Shibata

レース終盤、世界チャンピオンのジェンソン・バトンと白熱の3位争いを繰りひろげる可夢偉に、超満員の観客席から怒涛の「カムイコール」が響き渡った。

0.56秒の超僅差でのチェッカーフラッグを見届けて、僕は表彰台下に駆けつけた。チームオーナーのペーター・ザウバーら、ザウバーのスタッフたちが勢揃いする中、チーム代表のモニシャ・カルテンボーンが溢れる涙を拭おうともせず、可夢偉の勇姿を見上げていた。

柴田久仁夫Photo:Kunio Shibata

可夢偉のマシン作りへの献身が、この年のチームの躍進に大きく貢献していたことを、カルテンボーン代表は誰よりもわかっていた。しかしその成果を享受したのは、多くの場合チームメイトのセルジオ・ペレスだった。

F1デビュー2年目のペレスは予選一発の速さでは可夢偉に劣ったものの、レースでは開幕2戦目にいきなり2位表彰台。その後も二度の表彰台に上がり、日本GPの時点ではすでにマクラーレン移籍が決まっていた。

対する可夢偉もコンスタントに上位入賞は重ねていたが、ポイント獲得数ではペレスに大差をつけられていた。メキシコマネーが支配するザウバー残留は難しく、最悪の場合F1シート喪失の恐れさえあった。

柴田久仁夫Photo:Kunio Shibata

その後の息の長い活躍を見れば明らかなように、ペレスが才能あるF1ドライバーであることは間違いない。しかし一方でこの年の可夢偉は、ありとあらゆる不運に見舞われてもいた。

予選でペレス以上の速さを発揮しても、レースでとんでもないトラブルが降りかかったり、不可解なレース戦略の犠牲になったり、ピットミスで致命的なタイムロスを喫したり。そんな不運の出なかったほぼ唯一の週末が、あの日本GPだった。

柴田久仁夫

しかし3位表彰台という結果もチームの決断を動かすことはなく、可夢偉はザウバーを去った。そして2年後、F1キャリアにも終止符を打った。

その後の可夢偉がWECで大成したことは、素直に嬉しい。だが同時に、可夢偉にはもう少しF1で活躍してほしかった。そんな思いを、今も捨て切れずにいる。

■柴田久仁夫(しばた くにお)
1956年生まれ、静岡県出身。通信社の記者を経て、1982年に渡仏。パリを拠点にTV番組ディレクターとして活動。1987年よりジャーナリストとしてF1取材を開始し、さまざまなメディアに寄稿。2016年に拠点を日本に移し、現在もF1取材を続けながら、F1中継番組での解説も担当している。