Photo:Shigenobu Yoshida
当時は、現在のような近代的なピットビルはなかった。ガレージはピットレーン側に開放された出入口はなく、反対側からクルマの出し入れを行い、コントロールタワー横からコースに進入する形を採っていた。それでも日本のサーキットの中では設備的に一番と言えたし、私が欧州F2で廻ったサーキットと比べてもトップレベルであった。
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1987年にF1を迎えるにあたり大幅な改造が随所に施され、その後も幾多の改善が加えられながら35年余りが経ち、今の姿となった鈴鹿は、そのコースレイアウトから、リズミカルで正確なドライビングテクニックが要求され、F1ドライバーたちが大好きなコースとなっている。
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F1が鈴鹿にやって来た時には、サーキットの数か所でストップウォッチを使ってタイムを測り、その区間タイムと当時の国内タイヤメーカーがしのぎを削っていたF3000との比較検討を実施し、F1への予備調査を行った。また、無限(現M-TEC)さんのF1エンジン開発のお手伝いの話が来た時には鈴鹿でF1タイヤの基礎走行試験を行い、参戦が決まってからは、当時F1現役だった鈴木亜久里選手等の協力を得て本格的な開発を鈴鹿で行った。
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翌1998年のF1のチャンピオン争いは最終戦の鈴鹿に持ち越され、当時グッドイヤータイヤを履いていたフェラーリのミハエル・シューマッハー選手と我々のタイヤを使用するマクラーレンのミカ・ハッキネン選手との一騎打ちとなっていた。
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大変お世話になった思い出深い鈴鹿が今年は開業から60周年という節目の年を迎えるということで、心からお喜び申し上げます。そしてこれからもレースだけではなく、いろいろなイベントを開催し、安全で安心なサーキットとして我々に多くの楽しみを与え、さらに発展されることを、お祈りいたしております。
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■浜島裕英(はましま ひろひで)
1952年生まれ、東京都出身。1977年にタイヤメーカーのブリヂストンに入社。タイヤ基礎研究を経て、1981年よりモータースポーツ担当に。1997年からのブリヂストンF1参戦の際には開発リーダー&スポークスパーソンとして指揮を採った。2012年にブリヂストンを定年退職し、スクーデリア・フェラーリに加入。2014年末までアドバイザーを務めた。帰国後、セルモの総監督を経て、2019年より中嶋悟氏率いるNAKAJIMA RACINGに加入。