F1

浜島裕英

浜島裕英Photo:Shigenobu Yoshida

モータースポーツ初心者だった私が鈴鹿サーキットを初めて見たのは、1981年のことだ。

当時は、現在のような近代的なピットビルはなかった。ガレージはピットレーン側に開放された出入口はなく、反対側からクルマの出し入れを行い、コントロールタワー横からコースに進入する形を採っていた。それでも日本のサーキットの中では設備的に一番と言えたし、私が欧州F2で廻ったサーキットと比べてもトップレベルであった。

浜島裕英Photo:Shigenobu Yoshida

今のコントロールタワーの裏側(現在は駐車場)にあった食堂で、調理を担当するおばさんたちが顔馴染みに作ってくれた冷凍麺の肉うどんを食べるのは、冬のテストで鈴鹿を訪れた時の楽しみのひとつであった。

1987年にF1を迎えるにあたり大幅な改造が随所に施され、その後も幾多の改善が加えられながら35年余りが経ち、今の姿となった鈴鹿は、そのコースレイアウトから、リズミカルで正確なドライビングテクニックが要求され、F1ドライバーたちが大好きなコースとなっている。

浜島裕英Photo:Shigenobu Yoshida

私がブリヂストンに在籍していた時、鈴鹿はタイヤ開発の聖地と言えた。適切な長さのメインストレートがあり、高速の1〜2コーナー、そして横Gが左右に大きく掛かるS字、コーナーのカントがほとんどない逆バンク、ブレーキングして舵をやや大きく切り、加速も重要なデグナー、ブレーキングとトラクションが試されるヘアピンがあり、中速複合コーナーのスプーン、裏ストレートから超高速で右のリヤに大きな負担の掛かる130Rを経て、低速切り返しのシケインと、これだけバラエティに富んだコーナーを取り揃えているサーキットは他にはないだろう。

浜島裕英Photo:Shigenobu Yoshida

それだけに、タイヤには低速から高速までの幅広い操縦安定性と強烈な横Gと高荷重、高速に対抗する耐久性が要求され、試練のサーキットと言えるのだ。

F1が鈴鹿にやって来た時には、サーキットの数か所でストップウォッチを使ってタイムを測り、その区間タイムと当時の国内タイヤメーカーがしのぎを削っていたF3000との比較検討を実施し、F1への予備調査を行った。また、無限(現M-TEC)さんのF1エンジン開発のお手伝いの話が来た時には鈴鹿でF1タイヤの基礎走行試験を行い、参戦が決まってからは、当時F1現役だった鈴木亜久里選手等の協力を得て本格的な開発を鈴鹿で行った。

浜島裕英Photo:Shigenobu Yoshida

このように鈴鹿で生まれ育ったブリヂストンのF1タイヤは、1997年に参戦を果たした。そして鈴鹿へ初めて戻って来た時には、ブリヂストンを応援して下さる方々がたくさん来場して下さり、感激したのをよく覚えている。

翌1998年のF1のチャンピオン争いは最終戦の鈴鹿に持ち越され、当時グッドイヤータイヤを履いていたフェラーリのミハエル・シューマッハー選手と我々のタイヤを使用するマクラーレンのミカ・ハッキネン選手との一騎打ちとなっていた。

浜島裕英Photo:Shigenobu Yoshida

予選では2台の丁々発止の戦いが繰り広げられ、決勝ではシューマッハー選手のタイヤにトラブルが発生し、ブリヂストンの応援席の前でストップ。ハッキネン選手が優勝して自身初のチャンピオンを獲得した。ブリヂストンのタイヤはチャンピオンの足元を支える栄誉に輝いた。その表彰台で、ハッキネン選手がブリヂストンのキャップを指さして讃えてくれたのに涙したのを忘れない。鈴鹿が鍛えてくれたブリヂストンのタイヤが、世界に通用することを実証した瞬間だった。

大変お世話になった思い出深い鈴鹿が今年は開業から60周年という節目の年を迎えるということで、心からお喜び申し上げます。そしてこれからもレースだけではなく、いろいろなイベントを開催し、安全で安心なサーキットとして我々に多くの楽しみを与え、さらに発展されることを、お祈りいたしております。

浜島裕英Photo:Shigenobu Yoshida

■浜島裕英(はましま ひろひで)
1952年生まれ、東京都出身。1977年にタイヤメーカーのブリヂストンに入社。タイヤ基礎研究を経て、1981年よりモータースポーツ担当に。1997年からのブリヂストンF1参戦の際には開発リーダー&スポークスパーソンとして指揮を採った。2012年にブリヂストンを定年退職し、スクーデリア・フェラーリに加入。2014年末までアドバイザーを務めた。帰国後、セルモの総監督を経て、2019年より中嶋悟氏率いるNAKAJIMA RACINGに加入。