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F1日本GPトップ>特集一覧>マクラーレン・ホンダの栄光 赤と白の伝説のマシンたち

マクラーレン・ホンダの栄光 赤と白の伝説のマシンたち

  • 1988 | McLaren Honda MP4/4
  • 1989 | McLaren Honda MP4/5
  • 1990 | McLaren Honda MP4/5B
  • 1991 | McLaren Honda MP4/6
  • 1992 | McLaren Honda MP4/7A

1992 | McLaren Honda MP4/7A

1992| McLaren Honda MP4/7A

マクラーレン・ホンダ最後のマシンとなったMP4/7A。

1992年開幕戦、南アフリカGP。マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナは、レースを3位でフィニッシュする。

このレースを戦ったマクラーレン・ホンダのマシンは、MP4/6Bという名称が付けられている。アップデートはされているものの、実質的には前年のMP4/6そのもの。1992年用の新型車は完成が遅れ、開幕に間に合わなかったために、このMP4/6Bが投入されたのである。

「そんな状況でも3位ならばすごいじゃないか」

そう思われる方もいらっしゃるだろうが、先頭から34秒も離されての3位。これまで優位を誇り、シーズンを4連覇していたマクラーレン・ホンダからしてみれば、惨敗と言える結果だった。

この年は、ウイリアムズ・ルノーFW14Bが圧倒的な強さを誇った。前年戦った、エイドリアン・ニューウェイ作のFW14は、非常に空力性能に優れていた。その素性の良いFW14を、リ・アクティブサスペンション、トラクションコントロール、継続使用のセミ・オートマチックトランスミッションなど様々な電子デバイスで武装したのが、このFW14Bだった。

FW14Bは予選でも圧倒的な速さを誇る。セナをもってしても、開幕戦では0.741秒、第2戦メキシコGPでは2.445秒も、ナイジェル・マンセルに引き離されてしまう。

FW14Bへの対抗策としてマクラーレンは、開幕戦翌日に初走行したばかりの新車を、第3戦ブラジルGPに持ち込むことを決定する。このマシンがMP4/7Aである。セミ・オートマチックトランスミッション搭載、メス型成型のモノコックは、低いながらもハイノーズになっており、マクラーレンとしては初物ずくしだ。

デビューが遅れたのは、エンジンの完成が遅かったことも影響している。Vバンク角を変更したり、開発途中にはV10回帰案も出るなど、エンジンの仕様決定までに二転三転したため、RA122E/Bの完成は遅れに遅れたのだ。

マクラーレンはブラジルGPに、3台のMP4/7Aを持ち込んだ。しかし、いかんせんまだ熟成不足。そのため、開幕2戦を戦ったMP4/6Bも3台持ち込み、なんと合計6台の大物量作戦を敢行する。この時のマクラーレンのピットは、人、人、人でごった返していたという。

しかし、予選はマンセルから2.2秒も離された3番手(セナ)。決勝ではさらに悲惨で、デビュー1年に満たないベネトン・フォードのミハエル・シューマッハーや、チーム史上最低のシーズンを過ごしていたフェラーリのジャン・アレジらに次々と交わされてしまい、最終的にはリタイアしてしまう。

結局、ウイリアムズ+マンセルが開幕5連勝の新記録を樹立。しかも、スペインGPこそリカルド・パトレーゼはリタイアしたが、それ意外は全て1-2フィニッシュ。2014年のメルセデスAMGと同等かそれ以上の強さだった。

第6戦モナコGPでも、マンセルがセナに1.1秒の差を付けてポールポジションを獲得、決勝でも大差を付けて先頭を独走する。

しかし、2番手を走っていたセナ+マクラーレンに千載一遇のチャンスが訪れる。78周レースの71周目、マンセルの左リヤホイールにトラブルが発生し、ピットイン。この間、ついにセナが先頭に立つことになるのだ。

タイヤを交換したマンセルは、ここから怒濤の追い上げを見せ、すぐにセナの直後に。ここからが、F1史に残る大デッドヒートの始まりだ。

ペースはマンセルの方が明らかに速い。このレース、マンセルの最速タイムは1分21秒598。予選でのシューマッハー(1分21秒831/6番手)より速いペースで飛んでくるのだ。対するセナのレース中の最速タイムは1分23秒470と、マンセルよりも2秒近く遅い。しかも、セナのタイヤはほぼ使い切った状態のものであり、実際のペースはそれ以上に遅かったはずだ。本来なら太刀打ちできる差ではない。しかし、ここはモナコだ。道幅は狭く、そう簡単には抜けない。マンセルは右に左にマシンを振ってセナにプレッシャーをかけるが、セナは巧みにブロックする。72周目からチェッカーまでの7周は、一時も目を離すことができない、至極のバトル。当時のテレビ中継の、実況を思い出す方も多いだろう。

結果、セナが最後までマンセルを抑え切って優勝。セナも、マンセルも、汗みどろになってマシンを降り、健闘を称え合う。レース後、体力を使い切ったマンセルは、表彰式ではマーシャルに脇を支えられ、シャンパンファイトの途中で地面にへたり込んでしまうという有様だった。

続くカナダGPは、セナが今季初のポールポジションを獲得、ゲルハルト・ベルガーが優勝を果たすなど、MP4/7Aが連勝する。ただ、その後のフランス、イギリス、ドイツはマンセルが3連勝。そして8月16日のハンガリーGPで、マンセルに早々とドライバーズタイトルを決められてしまう。次のベルギーGPでは、コンストラクターズタイトルもウイリアムズに決定。史上稀に見る圧勝劇である。

マクラーレンは当初、アクティブサスペンションなどを搭載したMP4/7Bを搭載させる予定だった。Hondaが主導して開発されていたこのシステムは非常に複雑で、結局実用には至らず、MP4/7Bも登場することはなかった。とはいえ、チームはアクセルペダルの動きを電気信号に変換してエンジンに転送する“ドライブ・バイ・ワイヤ”というシステムを開発して投入。航空機の“フライ・バイ・ワイヤ”というシステムを応用したものだ。これは一定の効果を発揮したが、それでもウイリアムズ・ルノーに対抗できるだけのゲインではなかった。

イタリアGPの金曜日、Hondaは会見を開き、92年限りでF1から撤退することを発表した。発表を聞いたファンやメディアも驚いたが、Hondaの現場スタッフにも発表直前まで知らされていなかったという。セナも発表を受け、日本のテレビカメラを前にHondaへの感謝を述べ、涙を浮かべた。

そのイタリアGPをセナが勝ってHonda70勝。最後の鈴鹿では特製の“鈴鹿スペシャル”を持ち込んだがリタイア、ベルガーは2位と、優勝にはあと一歩届かなかった。このレース、セナはHondaへの感謝を示す意味も込め、ヘルメットに日の丸を貼った。

マクラーレン・ホンダ最後のレースは、アデレード市街地でのオーストラリアGP。ここでベルガーが劇的な勝利を飾り、Honda通算71勝、マクラーレン・ホンダとしては44勝目を挙げた。

あれから23年。伝説のコンビネーション、“マクラーレン・ホンダ”が2015年に復活する。新マクラーレン・ホンダは、我々にどんな感動を与えてくれるのだろうか? フェルナンド・アロンソが言うように、伝説は再現されるのだろうか? その答えを、我々は間もなく知ることになる。

簡単ではないのは百も承知だ。しかし、期待せずにはいられない。それほど、“マクラーレン・ホンダ”という響きは、我々を惹き付けてやまない。

なおマクラーレンMP4/7Aの詳細は、現在発売中の雑誌『GP Car Story Vol.10 McLaren MP4/7A』に収録されているので、こちらもご覧いただきたい。
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1992 | McLaren Honda MP4/7A

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1991 | McLaren Honda MP4/6

1991| McLaren Honda MP4/6

セナとHondaにとって最後のタイトル獲得マシンとなったMP4/6。

1991年。日本でのF1ブームが最も加熱した頃である。この年のマクラーレンが送り出したのがMP4/6であり、多くの日本人がイメージする“F1マシン像”は、このMP4/6なのではないだろうか? 前年のアイルトン・セナのタイトル獲得により、カーナンバーはふたたび1と2になった。

MP4/6は、前年までのマクラーレンのマシンと比べると、ノーズやサイドポンツーンが丸みを帯びた形状となり、MP4/4から踏襲してきたスタイルを一新した形となった。フロントのサスペンションも、トレンドのプッシュロッド式を採用。当時のマシントレンドに近づいた格好だ。しかし、時代はより先に行っていた。ティレルやウイリアムズ、レイトンハウスらは、空力性能を徹底的に考慮したマシンを登場させ、フェラーリとウイリアムズはセミ・オートマチックトランスミッションなどの電子デバイスを投入した。対するマクラーレンは、従来の“アナログ”マシン。空力性能でも最先端にはほど遠く、トランスミッションも従来のマニュアルシフト。やはりこの年もHondaエンジンに頼り切りの部分が大きかった。

そのHondaは、マクラーレン用にV12エンジンRA121Eを新たに開発、投入した。HondaがV12を登場させるのは、第1期最終年の1968年に投入したRA301E以来、実に23年ぶりのこと。RA121Eを開発するにあたっては、1989年4月から研究を開始し、1990年6月に実走テストを行い、1991年シーズン開幕前のオフシーズンテストでもMP4/5Cに搭載されて走行距離を稼ぎ、開発は順調に進んでいた。

しかし、新車MP4/6が登場したのは開幕直前のエストリル(ポルトガル)テスト。初めてドライブしたセナは、早速不満を訴える。その矛先はHondaだった。「パワーが足りない」と。その上、テストでの走行距離も不足しており、MP4/6の下馬評は低いものだった。

1991年の開幕戦は、前年に続きアメリカ・フェニックス市街地。ほとんどテストで走らぬまま、MP4/6は海を渡った。しかしこのMP4/6が実に速かったのだ。予選1回目こそフェラーリ新加入のジャン・アレジにトップタイムを譲ったものの、予選2回目でセナが圧倒的なタイムでポールポジションを獲得。決勝も先頭でフィニッシュする。しかも、その後モナコGPまで開幕4連勝。下馬評を覆し、速さと、強さと、高い信頼性を誇示してみせた。

しかし、連勝中でもセナは満足しなかった。中速域のトルクとコーナリング時の安定性不足を訴えたのである。セナは、あるチームの躍進を予感していたため、こう指摘していたのだと言われる。セナが最大の脅威と見なしていたのは、当時ランキング2位につけていたフェラーリではなく、ギヤボックスのトラブルを連発して僅か12点の獲得のみに終わっていた、ウイリアムズ・ルノーである。

ウイリアムズは1991年シーズンに、FW14と呼ばれる新車を準備していた。このFW14のデザイナーは、エイドリアン・ニューウェイ。近年ではレッドブルのマシンを手がけ、F1界を席巻している人物である。

ニューウェイは空力性能を重視し、それまでエンジンパワーが主体だったF1に新たな風を吹かせた。その最初の傑作とも言えるのが、FW14である。しかも、フェラーリに続いてセミ・オートマチックトランスミッションを採用。F1マシンのドライブを、格段に簡便にした。他にも多くの電子デバイスの開発に熱心に取り組んだのが、この頃のウイリアムズである。ただし、当初は各システムにトラブルが相次ぎ、91年開幕当初もリタイアすることが多かった。

マクラーレン+セナ開幕4連勝の後、第5戦カナダGPでは、そのウイリアムズの速さが発揮されることになる。決勝こそナイジェル・マンセルがリタイアに終わったため、優勝はベネトンのネルソン・ピケに譲るが、予選ではリカルド・パトレーゼがポールポジション、2番手にマンセルと、ウイリアムズが独占し、セナは3番手。セナの危惧が現実のものとなりはじめる。

ウイリアムズの本格化はここからで、続くメキシコ、フランス、イギリス、ドイツと4連勝。ポールポジションも、全てウイリアムズに奪われてしまう。シーズン当初と比べると、まさに形勢逆転である。

強さを増したウイリアムズに対抗すべく、マクラーレンは第10戦ハンガリーGPに軽量化したMP4/6を持ち込み、シェルに特殊燃料を開発させた。Hondaも、GP直前に逝去した創設者、本田宗一郎の弔い合戦とばかりに新スペックのRA121Eを持ち込む。この結果、実に6戦ぶりの勝利。続くベルギーも勝って、一矢を報いた。

とはいえ、ウイリアムズの勢いは収まらない。イタリア、ポルトガル、スペインと今度は3連勝を記録し、再びマクラーレンとの差を詰める。ただ、ウイリアムズは速いもののまだ信頼性に難があり、優勝かリタイアかという極端なレースを続けていた。一方、マクラーレンの特にセナは、勝てないレースでもなんとか2位を拾うなど、着実にポイントを積み重ねる。

迎えた鈴鹿での日本GP。セナとマンセルの差は16点。セナはマンセルよりも前でゴールすれば、自動的にチャンピオンが決まるという状況だった。

この鈴鹿にマクラーレンは、空力性能を向上させたMP4/6を投入。この効果は絶大で、マクラーレンは見事1-2フィニッシュ。セナはチェッカー直前でベルガーに先頭を譲って2位でゴールし、ドライバーズタイトル2連覇を達成した。最終戦オーストラリアGPでは、豪雨の中1-3フィニッシュを果たしたマクラーレンが、コンストラクターズタイトルの防衛にも成功する。

MP4/6でダブルタイトルを獲得したマクラーレン・ホンダ。とはいえこの年も、セナのドライビングとHondaエンジンの性能がなければ、勝つことはできなかったはずだ。しかし、時代は空力性能と電子デバイスへの時代へと、急激に加速していくこととなる。マクラーレンも91年シーズン中にセミ・オートマチックトランスミッションをテストしたが実戦投入はせず、アクティブサスペンションの開発を進めていたものの実用化にはほど遠いもの。時代の波に乗り遅れはじめていた。そして翌92年、ウイリアムズの圧倒的な強さの前に、ついに屈することとなる。
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1991 | McLaren Honda MP4/6

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1990 | McLaren Honda MP4/5B

1990| McLaren Honda MP4/5B

1990年、マクラーレン・ホンダのマシンには見慣れないカーナンバー27と28が付けられていた。前年、同チームでドライバーズタイトルを獲得したアラン・プロストがフェラーリへとチャンピオンナンバーである1を持って移籍していったため、代わりにフェラーリが付けていたナンバーがマクラーレンにもたらされたというわけだ。ドライバーはアイルトン・セナと、新加入のゲルハルト・ベルガーのふたりである。

この年のマクラーレンのマシンは、MP4/5Bと名付けられていた。文字通り、前年のMP4/5からの正常進化版である。1988年のMP4/4ではアドバンテージがあったマクラーレンのシャシーだが、MP4/5がキープコンセプトだったためそのアドバンテージは薄れ、MP4/5Bではさらにその傾向が強まった。この頃のマクラーレンは、Hondaエンジンのパフォーマンスに頼り切りだったのだ。

フロントのサスペンションは、プルロッド式を継続採用。当時は既に、ほとんどのチームが最新のプッシュロッド式に改めており、この点だけでも時代遅れの感が強い。また、MP4/5Bの特徴としてよく名前の挙る通称“バットマンディフューザー”は、最大のダウンフォース値は高いものの、車高の変化によってダウンフォース量が大きく増減し、非常にピーキーなマシン特性にしてしまっていた。

この年、マクラーレンの対抗馬だったのが、プロストが移籍していったフェラーリ。セミオートマチックギヤボックスなどの電子制御デバイスで武装し、最新の空力デザインを採用したフェラーリは、シャシー性能でマクラーレンを大きく引き離していた。

Hondaが1990年用に開発したパワーユニットRA100Eは、前年のRA109Eと同じ72度V10エンジンにもかかわらず、大きく進化を遂げていた。スロットルに対するレスポンスを改善するために、スロットルバルブを従来のスライド式からバタフライ式に変更。間違いなく当時最強のパワーユニットだったが、セナは当初、このバルブ方式を気に入らなかったという。彼特有のスロットル操作方法、いわゆる“セナ足”が使えなかったためだ。

Hondaは、サーキットごとに異なる特性のエンジンを用意し、予選用/決勝用併せて毎戦十数基のエンジンを持ち込んで、セナの要求に応えた。当時はエンジンの使用制限は存在しなかったため、年間で使われたエンジンは200基を超えていたという。今では考えられない、大物量作戦だ。それでもセナの意に添わない場合には、ペダルの動きをエンジンに伝えるカムレバーを、手作業で削ることもあったという。

パワーのマクラーレン・Hondaとマシンバランスのフェラーリ。両者のパフォーマンスは拮抗し、終盤までタイトル争いが繰り広げられることになる。もちろん、ドライバーズタイトルは、チームは異なれど、前年同様アイルトン・セナとプロストによって争われた。決着はまたも鈴鹿。スタート直後の1コーナーでセナとプロストは絡まり合うようにクラッシュし、そのままグラベルへ飛び出していった。これでセナ2度目のタイトルが決まったが、非常に後味の悪いチャンピオン決定劇(コンストラークターズタイトルも、このレースで決定)だったのは言うまでもない。

Hondaはこのレースに鈴鹿仕様の特製エンジン“鈴鹿スペシャル”を持ち込んでいた。しかし、レース時間はわずか数秒。そして翌周には同じ地点でベルガーがコースオフし、2周目にしてマクラーレン・ホンダは全滅してしまう。ピットで見ていたHondaのスタッフたちは、「あれだけやってきたのに、これで終わりか……」と嘆いたという。

3年連続のダブルタイトル獲得。当時のマクラーレン・ホンダは、まさしく最強の名に相応しいチームだった。しかし、内実はHondaエンジンの存在が大きく、ライバルに対するアドバンテージは、年々減っているのは明らかだった。そして翌年、彼らはさらに苦しめられることになる。しかもそのライバルは、フェラーリではなく別のチームだったのだ。
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1990 | McLaren Honda MP4/5B

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1989 | McLaren Honda MP4/5

1989 | McLaren Honda MP4/5

前年圧勝したマクラーレン・ホンダ。彼らが1989年シーズン用マシンとして登場させたのが、MP4/5だ。88年限りでターボエンジンは禁止。この89年から、全車自然吸気(NA)エンジンを搭載して、グランプリに臨んでいた。

フォードはV8、フェラーリはV12を選ぶなど、非常にバリエーションに富んだエンジンが登場したこの年。Hondaが選択したのは、V12のパワーを持ちながらV8のコンパクトさを兼ね備えた、V10エンジン。V10には特有の振動問題があったが、Hondaはこれも解決し、実戦に持ち込んだ。

このRA109Eと名付けられたV10エンジンを搭載したのが、マクラーレンMP4/5。ただこのマシンは、前年のMP4/4をほとんど踏襲したマシンだった。重心の低さはキープされているものの、フロントサスペンションは当時すでに時代遅れとなりつつあったプルロッドシステム。前後のウイングも、MP4/4とほとんど変わらない。

開幕戦に持ち込まれたMP4/5は、非常にピーキーな性格を現していたという。それでも、セナとプロストの天才的なコントロール、そしてHondaエンジンのパワーにより、マクラーレンに2年連続のコンストラクターズタイトルをもたらすこととなった。

ドライバーズタイトルは前年に引き続き、セナ対プロストの争い。シーズン半ばからは両者の対立が激化し、ほとんど口もきかないような険悪な状況。プロストが「Hondaはセナをひいきしている!」と訴えることもあった。

決着はこの年もやはり鈴鹿。シケインでセナとプロストが接触し、プロストがその場でストップ。セナは走行を再開し、2年連続でのチャンピオン獲得か……と思われたが、接触からコースに復帰する際にシケインを通過しなかったとして、レース失格の裁定。これにより、プロストが自身3度目のタイトルを手にすることになる。

チャンピオンになったとはいえ、チームやセナとプロストの関係は最悪の状況であり、プロストはこの年を最後にマクラーレンを離れ、フェラーリへと移籍していくことになる。
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1989 | McLaren Honda MP4/5

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1988 | McLaren Honda MP4/4

1988 | McLaren Honda MP4/4

マクラーレンMP4/4。アイルトン・セナとアラン・プロストのコンビにより1988年シーズンを席巻した、F1史に残る名車である。16戦中15勝。シーズン最多優勝記録こそ2014年にメルセデスAMGにより破られてしまったが、シーズン最高勝率の記録は、いまだこのMP4/4が持っている。

シャシーは鬼才ゴードン・マーレイとスティーブ・ニコルズの合作。マーレイがこれ以前に手がけたブラバムBT56と同様、徹底した低重心化が図られ、素性の良いマシンに仕上がった。その上、当時最強のHondaのV6ターボエンジンRA168Eを搭載。まさに非の打ち所のないマシンだった。

HondaはV6ターボエンジンを87年までウイリアムズに供給。そのあまりの強さに、88年限りでターボエンジンの使用が禁止されてしまう。しかも、レース中の燃料使用制限も厳しくなり、まさに“Hondaつぶし”とも取れるレギュレーション変更が多くなされた。そんな状況下でも、Hondaのエンジンを搭載したマシンは強かった。むしろ、ウイリアムズ時代よりもその強さは増し、F1界を席巻したのだ。

そんな最強マシンを手にしたふたりの最強ドライバー、セナとプロスト。両者のタイトル争いが決着したのは、第15戦日本GPだった。ポールポジションを獲得するも、スタートでストールしてしまったセナは後方に下がってしまう。これで、プロスト有利かと思いきや、セナが怒濤の追い上げを開始。大逆転でトップチェッカー。この勝利で、セナは自身初のドライバーズタイトルを獲得。Hondaにとっても、嬉しい母国初優勝だった。

しかしこの裏で、翌年表面化する大きな問題が膨らんでいた。当初は良好な関係を築いていたセナとプロストだが、この後徐々に啀み合っていくこととなってしまうのだった。

ところで、MP4/4のシーズン全勝記録が阻まれたのは、第12戦イタリアGP。セナが残り2周というところまでトップを走行していたが、周回遅れのジャン-ルイ・シュレッサー(ウイリアムズ)と接触し、ストップしてしまう。プロストもすでにエンジントラブルでリタイアしていたため、優勝はゲルハルト・ベルガー(フェラーリ)の手に。シーズン全勝という大記録は、寸前のところで果たされることはなかった。

セナと接触したジャン-ルイ・シュレッサーは、1968年にF1フランスGPでHondaF1マシンをドライブし、事故死したジョー・シュレッサーの甥にあたる人物。F1では4戦にエントリーして決勝出走1回と目立った成績は収められなかったが、WSPC(世界スポーツプロトタイプカー選手権)で2度チャンピオンに輝くなど(1987年と1988年)大活躍。後年はダカールラリーで優勝するなど、ラリードライバーとして活躍した。
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1988 | McLaren Honda MP4/4

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